2006年 09月 10日
さ行 |
そ
へんな時間に起きてしまった。それもこれも昨夜のBS2放送のアニメ主題歌コンサートで2時間盛り上がり続け、飲めないワインを飲んでしまったからである。眠くなるまでここに書き込むことにします。
「そ」は総理大臣。小泉純一郎氏は初めて任命されたときから、もうすぐ退任する現在にかけて、ほぼ同じ程度の存在感でい続けた、戦後の日本では珍しいタイプの総理大臣だと思う。僕の子供のころから「ソーリダイジン」といえば、田中角栄であり、大平さんであり、三木さんであり、福田さん、中曽根さん・・・・その後は印象薄くて覚えてない、程度の記憶しか残っていない。戦後の輝かしい日本経済の発展の歴史からすると、どん底に低迷していた時期の総理大臣を小泉氏はしたわけで、大変なことだとは思う。しかし、任期と人気が長く続いたということで、良くも悪くも国民の意識の中には定着できた。ただ、日本の慣習を急に変えすぎた嫌いがある。この数年で日本は急にアメリカ社会のようになってしまった。こうなる必要はなかったはず。社会に日本らしさがなくなってきている。あるいは、ようやくアメリカによる日本の戦後支配が明確に開始してきたということなのかもしれない。アメリカ製憲法をずっと使い続けた効果が現れてきたのか。
小泉流のズバっと潔い改革は、アメリカ的視点からすると、とてもいいことだと思うが、われわれには日本人の血が流れているのだ。かつて、アメリカの自動車メーカー、GMやフォードが、トヨタの経営体制や工場システムをお手本にした時期があった。そこにはアメリカ流にはないジャパン流の学ぶべきいいやり方があったからだ。コイズミ流構造改革はジャパン流だったのか?外国が学ぶべき要素はそこにはあったのか?そこを問いたい。どこかがやったことをお手本にして、実行してきたことなら、おそらく今後なんらかの障害が生じることになるだろう。
「そ」はそば。アレルギー反応の強い食べ物である。うちの娘はたった1本食べるだけで顔がお岩さんのようにまぶたが腫れあがってしまう。このようなアレルギーは、昔の日本にもあったはずで、例えば江戸時代にもそばアレルギーで困った人とか死んじゃった人もいるはずだ。木賃宿にとまったら夜中に突然死んでしまって、調べるとまくらがそば殻だったとか、そんな原因不明の死がたくさんあったと思う。そんな危険な食べ物だが、食べられる人にとってはなんとも魅力的なうまいヌードルである。
しかし、そんなそばだが、いま思い返すとすごい冒険だなと思ったのは、国際線の機内食で出たことだ。もう10年も前に、シアトル国際空港からノースウェスト、成田経由、香港行きの便に乗って、僕は1年ぶりに帰国した。その便での機内食が、そばかうどんがメニューにあった。しかし乗っている人は日本人だけではなく、中国人も多かった。もしも自分がそばアレルギー持ちだとは知らずに食べてしまい、太平洋上高度1万メートルの上空で発作でも起きてしまったなら、これは映画エアポート'75並みのパニックに陥るだろう。
しかし、例えば東京でお昼時に食堂を探すとき、そば屋の存在は大きい。つい入ってしまう。なぜなら、そばは早いし、しかもお店が清潔だからだ。メニューもごちゃごちゃしてなくて、店すべてが潔い。僕はそばが食べられてよかったと思う今日この頃である。
だんだん眠くなってきたのでこの辺で。最後にオリエンタルラジオのネタで閉めたい。「麦茶を飲んだらめんつゆだ。飲まずに急いでそば茹でる。武勇伝武勇伝武勇でんでんででんでん!レッツゴー!!」
3:42:27 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!848.entry
コメントの投稿5月28日
せ
「せ」は世界。子供のころ、世界は広かった。別に地球は縮んでいるというわけではない。
子供のころの世界は、テレビ番組の「兼高かおる世界の旅」の世界であり、「すばらしい世界旅行」の世界であり、「世界の結婚式」の世界でしかなかった。それが大人になった今、仕事であちこち行くようになり、留学も経験して、世界は活動範囲になってしまった。もちろん、アマゾンの奥地や、南極大陸や、ヒマラヤ山脈や、シベリアの森林などの秘境は、今でも子供のころの、届きそうもない世界のままであるが・・・。
飛行機による輸送網の発達と、インターネットや衛星放送による情報網の発達によって、世界はだれでも手の届く活動範囲になってしまった。地球が有限の空間であるという認識が定着し、人によっては狭く感じるようになったかもしれない。
地理的には有限なるものとして世界=地球が人々の意識に広まっている今、環境問題や、エネルギー問題などの問題意識を共有しやすくなったともいえる。これは地球という自然は勝手に維持されるんだという幻想から、壊さないようにしようという保護の意識を経て、治していこうという環境の形成(これもterra-formingといえよう)への発展に向かう過程にあるのだろう。熱帯魚の水槽を維持していくような感覚に近いものがあると思う。
僕がよく聞くネットラジオのradio sakamotoで、青森県六ヶ所村の核燃料再処理施設の話をしていた(いまオンエアしているので興味がある人はJ-waveサイトにあるRSSをiTunesへ)。地球には幾多の超新星爆発によって生まれた重元素のウランがある。その放射性同位体である235Uは核燃料として238Uとそこから核反応過程を経てプルトニウム239Puの燃えカスを生み出す。その核燃料廃棄物から239Puが取り出せるわけだが、これは地上で初めて長崎に投下された原子爆弾の材料である。そして、現在地上に配備されている核ミサイルの核弾頭である。六ヶ所村は核爆弾製造工場でもあるわけだ。なぜ日本はPu精製に勢力的かというと、プルサーマル(=プルトニウムサーマルリアクター)計画を推進しているからである。これは簡単に言うとウラン燃料にプルトニウムを混ぜて、高温で核反応させることで、長時間使える燃料として原子炉の効率を高めて、原子力発電を将来も安定に運営できる新手法である。だが、番組ではこのプルサーマルに疑問を投げかけている。採掘可能なウラン燃料が自然界にはまだたっぷりあるため、実は経済性もあまりないことを指摘している。そして、もっとも危険なのは、再処理過程で出る放射線量が桁違いに大きいことである。一年間に日本の原子力発電所が漏らす放射線の総量に匹敵する放射線を六ヶ所村施設では1日で大気と海水中に放出するらしい。
・・・・こういうことをどこかで行っているのが、今の地球であり世界であり、昔僕らが思い描きあこがれた世界、地球とは異なった方向に向かいつつあるのが本当の姿である。電気の供給を増やすために国はいっしょうけんめいなのだが、これはCO2排出量削減には寄与するかもしれない。しかし、結局、電気の消費量を増やし、物すべてを消費する生活を加速させるため、逆にCO2排出は増えるかもしれない。僕は100円ショップはCO2排出を促進している事業だと思っている。なぜなら、あそこに売っているものは、いいかたが悪いかもしれないけど、はっきり言って「ごみ寸前」であるからである。それと同じことが、原発の増強によって起こると思っている。
だれか、消費しないことがカッコいい、といったブームというかスタイルをはやらせてくれないかなあ~。そう願う今日この頃である。
12:26:46 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!841.entry
コメントの投稿す
「す」は素。ありのまま。極限状態になると、人はありのままの素の自分が出るものだ。
人前で話すことが多いゆえ、前もってパワーポイントなどでプレゼン資料を用意したりするが、それを練習して臨むなんてことは、学生時代以降はもうほとんどない。アドリブあるのみだ。これがお笑い芸人だったりすると、そんだけ準備なしで舞台に上がると、「神降臨」を期待するだけになってしまうだろうなと、いつも発表前に会場前列で思ってしまう。だが、いざしゃべり始めると、そこは慣れたもので、そつなく話せてしまうが、たまに、素の自分がはっきり出てしまい、思わぬ脱線というか、予期せぬ展開というか、ジャズのソロ的な気持ちのいい誤算があったりする。
そう考えると、人はいかに殻を脱ぎ去り、素を出せているかで勝負が決まるんだろうな、という解釈にたどり着く。しかし、これが簡単なようでなかなか難しい。素がだせるようになるために、どれだけ素とはかけ離れた理論武装を殻としてまとわなくてはならないか。いざという舞台で潔く脱ぎ捨てるためだけの武装を。。。大学行って、大学院行ってという長い過程も、脱ぎ捨てるためだけのものだったということにもうすうす気がついてきている今日この頃だ。
もひとつ「す」はスーパーマン。中学の頃見た映画、「スーパーマン」は本当に印象的な映画だった。アニメではNHKなどですでに見ていて知っていたし、それがアメコミから来ていることも知っていたが、実写化されたSF映画としてのスーパーマンは、当時の特殊撮影技術からしても、かなりスーパーなできばえだったと思う。ボストンポップスが演奏したと思うが、主題曲もとてもよく、特に間奏部分のメロディアスな部分は傑作に値するメロディーだと思う。その映画がリメイクされる。前作の主演、クリストファー・リーブは落馬で頚骨骨折で全身不随状態に陥り、その後も治療に努めたが、亡くなったことは記憶に新しい。
そのスーパーマンが、「スーパーマンリターンズ」として帰ってくる。近頃ヒーローが次々とリターンズしている(笑)が、子供のころ見た映画として記憶に残っているこのスーパーマンについては、ぜひとも見たいと思っている。音楽ももし同じだったら、ちょっと泣いてしまうかも知れない。。。
スーパーついでに、「す」はスーパーノヴァ、超新星爆発。重たい元素が生み出されるためには数々の超新星爆発が繰り返されてきた。そして、今の地球の物質ができあがっている。僕たちは星のかけらなのだ。金以上の重たい元素ができるには最近のスーパーコンピュータでの計算では2つの超新星が衝突しなくてはならないそうだ。話はそれるが、スーパーコンピュータっていつまでスーパーなんだろうか?
最後に「す」は好き。初めて好きになった人のことは誰しも決して忘れない大切な思い出だ。最近週刊アスキーを買ったら、表紙を飾る女性の写真にちょっと釘付けになった。劇団四季かどこかの女優さんらしいが、あまりテレビには出ていない彼女の姿に僕は懐かしいものを感じた。初めて好きになった人、正確に言うと、初めてラブレターを書いて、ものの見事に振られた女性が大きくなった姿にそっくりだったからだ。といっても、最近になってその女性にあったわけでもなく、きっと今こういう顔立ちになっているんだろうなという想像した今の顔に対して思っているだけだ。昔どんな顔だったかもおぼろげない。
だけど、時がたって、記憶も定かではないけども、きっと近い顔立ちをしていると思う。それだけ、好きだったという記憶は、脳の奥底に、タイムカプセルのように頑丈な容器で守られしまわれている。なんとも青臭い話だなあ。
このMSNスペースのデザインを変えてみました。緑色基調は変わらないけど、xbox360デザインなのが玉にキズ。このロゴをみると、ほかほかのジャガバターを思い出すのは僕だけ?
0:11:12 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!840.entry
コメントの投稿5月24日
し(その2)
「し」は死というのは避けられない課題.
生まれてこのかた死体を見たことない人は,さすがにこの年ほどになるといないと思う.
しかし,布をかぶせられ白装束で布団に横たわっていたり,棺の中に綺麗に死化粧して,菊の花を飾られて収められている死体と,野外で見る死体とではまったく別物である.
アメリカに住んでいたとき,いつものようにバスで大学に向かっていたら,もうすぐ授業が始まりそうなのに(始業は8時だった),一本しかないメインストリートは大渋滞.いらいらしながら座っていると,立って乗っている若い学生たちが騒ぎ始めた.ささやくような声で"Wow, he is dead!"というのが聞こえたので,僕もバスの窓から外を見たら,シェビーのピックアップトラックの屋根の上に,明らかに死後硬直したジーパンを履いた死体が,足を道路側に突き出した形で横たわっていた.びっくりした.そして次の瞬間,目を背けた.たぶんみんなそうだったかもしれない.日常に突然飛び込んできた死というものは,その非日常性への違和感というか,悲しさなき客観的死というか,ものすごい奇妙な感覚を僕に与えた.
映画「スタンドバイミー」はアメリカの少年たちが,死体を捜す競争に旅立つ話だが,ついにその死体を見たときに興味本位に浮き足立った少年たちの態度はがらりと変わり,興奮は冷めてしまった.死の違和感は,僕たち生きている人間には,ある種のプログラムが起動するかのような特別な意識を働かせるのだろう.その先には,何か宗教的なものがありそうだが,そこにはまだ僕の未熟な心はたどり着いていない.
13:52:48 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!836.entry
コメントの投稿5月23日
し
「し」は新。新オバケのQ太郎、新巨人の星、新エースをねらえ、などアニメ番組タイトルに新をつけるのがはやった時期があったように思う。子供ながらかっこよかったと思った。しかし多くはリメイクすると後に文字が付くのが多いようだ。ドラゴンボールZしかり、おジャ魔女どれみどっかーん、キューティーハニーFしかり。でもやっぱり、新○○のほうがかっこいい。ふと思い出したが、関西では有名な新野新さんは元気だろうか?
新は新機種。とてもそそられる言葉である。最近では新機種という言葉が代名詞として使われるのはもっぱら携帯やパソコンであろう。特に使用頻度や所有者数を考えると携帯電話の新機種というのが一番に浮かぶ。新機種が出る数は各携帯会社に対してそれぞれ持ちまわりで決められているようだ。公には言われてないが、これは正しいと思う。今はdocomoが各会社内では最大数の新機種を出荷している順番である。そして、たくさん出せる順番が回ってくると、必ず新規契約者は増えるはずである。これは一種の八百長である。市場における競争原理を無視しており、公正取引法違反の疑いがあるかもしれない。僕の愛用するvodafoneは冬の季節。なーんにも魅力的機種がない。softbank交代前の焼け野原状態だ。。。
「し」は仕事。仕事に貴賎なし。いい仕事をしていられたら人は幸せだ。職人という言葉があるが、あれは適当な言葉ではないと思う。なんのこっちゃらわからないからだ。でも職100%の人という意味ではなんとなく伝わる。その人全部が職なのだ。人間国宝みたいなもんだろう。ピュアだ。僕は職人を尊敬する。
「し」についてはもっと書きたい。。。
22:45:36 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!834.entry
コメントの投稿5月20日
さ
「さ」は散歩。五月のこの季節の散歩は格別である。
今日は近くのお寺の庭園に行ってきた。有料で入園料300円を払い、あまり期待もせずに入ってみたら驚いた。池とそれを取り囲む空間の演出。庭にはたくさんのツツジとシャガが咲き乱れていて、その奥のマツやヒノキ、タケの森につながっていた。足元には竹の子も突き出している。池にはどす黒くなるほどのおたまじゃくしと、錦鯉が元気よく泳いでいた。所々に東屋の休憩所があり、主婦たちや外国人たちが池の向こうに見える五重塔など、景色を楽しみながら休んでいた。なんとも癒される空間、日本庭園という小宇宙をしばらくのあいだ味わった。
美しいもの、快適さに対して、最近は惜しみなくお金を払える自分に気づく。お寺の人たちは、この庭園を維持するのは大変かもしれないが、そこに仏教の世界に通じる何か大切なものを感じているのであろう。
帰りに、お寺の本堂の床下の乾いた砂地に、アリジゴク(蟻地獄)の巣をみつけた。子供のころは
、オケラとアリジゴクには特別な興味をもっていて好きだった。しかし、お寺にジゴクとは。。。
19:09:08 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!827.entry
コメントの投稿5月16日
へんな時間に起きてしまった。それもこれも昨夜のBS2放送のアニメ主題歌コンサートで2時間盛り上がり続け、飲めないワインを飲んでしまったからである。眠くなるまでここに書き込むことにします。
「そ」は総理大臣。小泉純一郎氏は初めて任命されたときから、もうすぐ退任する現在にかけて、ほぼ同じ程度の存在感でい続けた、戦後の日本では珍しいタイプの総理大臣だと思う。僕の子供のころから「ソーリダイジン」といえば、田中角栄であり、大平さんであり、三木さんであり、福田さん、中曽根さん・・・・その後は印象薄くて覚えてない、程度の記憶しか残っていない。戦後の輝かしい日本経済の発展の歴史からすると、どん底に低迷していた時期の総理大臣を小泉氏はしたわけで、大変なことだとは思う。しかし、任期と人気が長く続いたということで、良くも悪くも国民の意識の中には定着できた。ただ、日本の慣習を急に変えすぎた嫌いがある。この数年で日本は急にアメリカ社会のようになってしまった。こうなる必要はなかったはず。社会に日本らしさがなくなってきている。あるいは、ようやくアメリカによる日本の戦後支配が明確に開始してきたということなのかもしれない。アメリカ製憲法をずっと使い続けた効果が現れてきたのか。
小泉流のズバっと潔い改革は、アメリカ的視点からすると、とてもいいことだと思うが、われわれには日本人の血が流れているのだ。かつて、アメリカの自動車メーカー、GMやフォードが、トヨタの経営体制や工場システムをお手本にした時期があった。そこにはアメリカ流にはないジャパン流の学ぶべきいいやり方があったからだ。コイズミ流構造改革はジャパン流だったのか?外国が学ぶべき要素はそこにはあったのか?そこを問いたい。どこかがやったことをお手本にして、実行してきたことなら、おそらく今後なんらかの障害が生じることになるだろう。
「そ」はそば。アレルギー反応の強い食べ物である。うちの娘はたった1本食べるだけで顔がお岩さんのようにまぶたが腫れあがってしまう。このようなアレルギーは、昔の日本にもあったはずで、例えば江戸時代にもそばアレルギーで困った人とか死んじゃった人もいるはずだ。木賃宿にとまったら夜中に突然死んでしまって、調べるとまくらがそば殻だったとか、そんな原因不明の死がたくさんあったと思う。そんな危険な食べ物だが、食べられる人にとってはなんとも魅力的なうまいヌードルである。
しかし、そんなそばだが、いま思い返すとすごい冒険だなと思ったのは、国際線の機内食で出たことだ。もう10年も前に、シアトル国際空港からノースウェスト、成田経由、香港行きの便に乗って、僕は1年ぶりに帰国した。その便での機内食が、そばかうどんがメニューにあった。しかし乗っている人は日本人だけではなく、中国人も多かった。もしも自分がそばアレルギー持ちだとは知らずに食べてしまい、太平洋上高度1万メートルの上空で発作でも起きてしまったなら、これは映画エアポート'75並みのパニックに陥るだろう。
しかし、例えば東京でお昼時に食堂を探すとき、そば屋の存在は大きい。つい入ってしまう。なぜなら、そばは早いし、しかもお店が清潔だからだ。メニューもごちゃごちゃしてなくて、店すべてが潔い。僕はそばが食べられてよかったと思う今日この頃である。
だんだん眠くなってきたのでこの辺で。最後にオリエンタルラジオのネタで閉めたい。「麦茶を飲んだらめんつゆだ。飲まずに急いでそば茹でる。武勇伝武勇伝武勇でんでんででんでん!レッツゴー!!」
3:42:27 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!848.entry
コメントの投稿5月28日
せ
「せ」は世界。子供のころ、世界は広かった。別に地球は縮んでいるというわけではない。
子供のころの世界は、テレビ番組の「兼高かおる世界の旅」の世界であり、「すばらしい世界旅行」の世界であり、「世界の結婚式」の世界でしかなかった。それが大人になった今、仕事であちこち行くようになり、留学も経験して、世界は活動範囲になってしまった。もちろん、アマゾンの奥地や、南極大陸や、ヒマラヤ山脈や、シベリアの森林などの秘境は、今でも子供のころの、届きそうもない世界のままであるが・・・。
飛行機による輸送網の発達と、インターネットや衛星放送による情報網の発達によって、世界はだれでも手の届く活動範囲になってしまった。地球が有限の空間であるという認識が定着し、人によっては狭く感じるようになったかもしれない。
地理的には有限なるものとして世界=地球が人々の意識に広まっている今、環境問題や、エネルギー問題などの問題意識を共有しやすくなったともいえる。これは地球という自然は勝手に維持されるんだという幻想から、壊さないようにしようという保護の意識を経て、治していこうという環境の形成(これもterra-formingといえよう)への発展に向かう過程にあるのだろう。熱帯魚の水槽を維持していくような感覚に近いものがあると思う。
僕がよく聞くネットラジオのradio sakamotoで、青森県六ヶ所村の核燃料再処理施設の話をしていた(いまオンエアしているので興味がある人はJ-waveサイトにあるRSSをiTunesへ)。地球には幾多の超新星爆発によって生まれた重元素のウランがある。その放射性同位体である235Uは核燃料として238Uとそこから核反応過程を経てプルトニウム239Puの燃えカスを生み出す。その核燃料廃棄物から239Puが取り出せるわけだが、これは地上で初めて長崎に投下された原子爆弾の材料である。そして、現在地上に配備されている核ミサイルの核弾頭である。六ヶ所村は核爆弾製造工場でもあるわけだ。なぜ日本はPu精製に勢力的かというと、プルサーマル(=プルトニウムサーマルリアクター)計画を推進しているからである。これは簡単に言うとウラン燃料にプルトニウムを混ぜて、高温で核反応させることで、長時間使える燃料として原子炉の効率を高めて、原子力発電を将来も安定に運営できる新手法である。だが、番組ではこのプルサーマルに疑問を投げかけている。採掘可能なウラン燃料が自然界にはまだたっぷりあるため、実は経済性もあまりないことを指摘している。そして、もっとも危険なのは、再処理過程で出る放射線量が桁違いに大きいことである。一年間に日本の原子力発電所が漏らす放射線の総量に匹敵する放射線を六ヶ所村施設では1日で大気と海水中に放出するらしい。
・・・・こういうことをどこかで行っているのが、今の地球であり世界であり、昔僕らが思い描きあこがれた世界、地球とは異なった方向に向かいつつあるのが本当の姿である。電気の供給を増やすために国はいっしょうけんめいなのだが、これはCO2排出量削減には寄与するかもしれない。しかし、結局、電気の消費量を増やし、物すべてを消費する生活を加速させるため、逆にCO2排出は増えるかもしれない。僕は100円ショップはCO2排出を促進している事業だと思っている。なぜなら、あそこに売っているものは、いいかたが悪いかもしれないけど、はっきり言って「ごみ寸前」であるからである。それと同じことが、原発の増強によって起こると思っている。
だれか、消費しないことがカッコいい、といったブームというかスタイルをはやらせてくれないかなあ~。そう願う今日この頃である。
12:26:46 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!841.entry
コメントの投稿す
「す」は素。ありのまま。極限状態になると、人はありのままの素の自分が出るものだ。
人前で話すことが多いゆえ、前もってパワーポイントなどでプレゼン資料を用意したりするが、それを練習して臨むなんてことは、学生時代以降はもうほとんどない。アドリブあるのみだ。これがお笑い芸人だったりすると、そんだけ準備なしで舞台に上がると、「神降臨」を期待するだけになってしまうだろうなと、いつも発表前に会場前列で思ってしまう。だが、いざしゃべり始めると、そこは慣れたもので、そつなく話せてしまうが、たまに、素の自分がはっきり出てしまい、思わぬ脱線というか、予期せぬ展開というか、ジャズのソロ的な気持ちのいい誤算があったりする。
そう考えると、人はいかに殻を脱ぎ去り、素を出せているかで勝負が決まるんだろうな、という解釈にたどり着く。しかし、これが簡単なようでなかなか難しい。素がだせるようになるために、どれだけ素とはかけ離れた理論武装を殻としてまとわなくてはならないか。いざという舞台で潔く脱ぎ捨てるためだけの武装を。。。大学行って、大学院行ってという長い過程も、脱ぎ捨てるためだけのものだったということにもうすうす気がついてきている今日この頃だ。
もひとつ「す」はスーパーマン。中学の頃見た映画、「スーパーマン」は本当に印象的な映画だった。アニメではNHKなどですでに見ていて知っていたし、それがアメコミから来ていることも知っていたが、実写化されたSF映画としてのスーパーマンは、当時の特殊撮影技術からしても、かなりスーパーなできばえだったと思う。ボストンポップスが演奏したと思うが、主題曲もとてもよく、特に間奏部分のメロディアスな部分は傑作に値するメロディーだと思う。その映画がリメイクされる。前作の主演、クリストファー・リーブは落馬で頚骨骨折で全身不随状態に陥り、その後も治療に努めたが、亡くなったことは記憶に新しい。
そのスーパーマンが、「スーパーマンリターンズ」として帰ってくる。近頃ヒーローが次々とリターンズしている(笑)が、子供のころ見た映画として記憶に残っているこのスーパーマンについては、ぜひとも見たいと思っている。音楽ももし同じだったら、ちょっと泣いてしまうかも知れない。。。
スーパーついでに、「す」はスーパーノヴァ、超新星爆発。重たい元素が生み出されるためには数々の超新星爆発が繰り返されてきた。そして、今の地球の物質ができあがっている。僕たちは星のかけらなのだ。金以上の重たい元素ができるには最近のスーパーコンピュータでの計算では2つの超新星が衝突しなくてはならないそうだ。話はそれるが、スーパーコンピュータっていつまでスーパーなんだろうか?
最後に「す」は好き。初めて好きになった人のことは誰しも決して忘れない大切な思い出だ。最近週刊アスキーを買ったら、表紙を飾る女性の写真にちょっと釘付けになった。劇団四季かどこかの女優さんらしいが、あまりテレビには出ていない彼女の姿に僕は懐かしいものを感じた。初めて好きになった人、正確に言うと、初めてラブレターを書いて、ものの見事に振られた女性が大きくなった姿にそっくりだったからだ。といっても、最近になってその女性にあったわけでもなく、きっと今こういう顔立ちになっているんだろうなという想像した今の顔に対して思っているだけだ。昔どんな顔だったかもおぼろげない。
だけど、時がたって、記憶も定かではないけども、きっと近い顔立ちをしていると思う。それだけ、好きだったという記憶は、脳の奥底に、タイムカプセルのように頑丈な容器で守られしまわれている。なんとも青臭い話だなあ。
このMSNスペースのデザインを変えてみました。緑色基調は変わらないけど、xbox360デザインなのが玉にキズ。このロゴをみると、ほかほかのジャガバターを思い出すのは僕だけ?
0:11:12 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!840.entry
コメントの投稿5月24日
し(その2)
「し」は死というのは避けられない課題.
生まれてこのかた死体を見たことない人は,さすがにこの年ほどになるといないと思う.
しかし,布をかぶせられ白装束で布団に横たわっていたり,棺の中に綺麗に死化粧して,菊の花を飾られて収められている死体と,野外で見る死体とではまったく別物である.
アメリカに住んでいたとき,いつものようにバスで大学に向かっていたら,もうすぐ授業が始まりそうなのに(始業は8時だった),一本しかないメインストリートは大渋滞.いらいらしながら座っていると,立って乗っている若い学生たちが騒ぎ始めた.ささやくような声で"Wow, he is dead!"というのが聞こえたので,僕もバスの窓から外を見たら,シェビーのピックアップトラックの屋根の上に,明らかに死後硬直したジーパンを履いた死体が,足を道路側に突き出した形で横たわっていた.びっくりした.そして次の瞬間,目を背けた.たぶんみんなそうだったかもしれない.日常に突然飛び込んできた死というものは,その非日常性への違和感というか,悲しさなき客観的死というか,ものすごい奇妙な感覚を僕に与えた.
映画「スタンドバイミー」はアメリカの少年たちが,死体を捜す競争に旅立つ話だが,ついにその死体を見たときに興味本位に浮き足立った少年たちの態度はがらりと変わり,興奮は冷めてしまった.死の違和感は,僕たち生きている人間には,ある種のプログラムが起動するかのような特別な意識を働かせるのだろう.その先には,何か宗教的なものがありそうだが,そこにはまだ僕の未熟な心はたどり着いていない.
13:52:48 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!836.entry
コメントの投稿5月23日
し
「し」は新。新オバケのQ太郎、新巨人の星、新エースをねらえ、などアニメ番組タイトルに新をつけるのがはやった時期があったように思う。子供ながらかっこよかったと思った。しかし多くはリメイクすると後に文字が付くのが多いようだ。ドラゴンボールZしかり、おジャ魔女どれみどっかーん、キューティーハニーFしかり。でもやっぱり、新○○のほうがかっこいい。ふと思い出したが、関西では有名な新野新さんは元気だろうか?
新は新機種。とてもそそられる言葉である。最近では新機種という言葉が代名詞として使われるのはもっぱら携帯やパソコンであろう。特に使用頻度や所有者数を考えると携帯電話の新機種というのが一番に浮かぶ。新機種が出る数は各携帯会社に対してそれぞれ持ちまわりで決められているようだ。公には言われてないが、これは正しいと思う。今はdocomoが各会社内では最大数の新機種を出荷している順番である。そして、たくさん出せる順番が回ってくると、必ず新規契約者は増えるはずである。これは一種の八百長である。市場における競争原理を無視しており、公正取引法違反の疑いがあるかもしれない。僕の愛用するvodafoneは冬の季節。なーんにも魅力的機種がない。softbank交代前の焼け野原状態だ。。。
「し」は仕事。仕事に貴賎なし。いい仕事をしていられたら人は幸せだ。職人という言葉があるが、あれは適当な言葉ではないと思う。なんのこっちゃらわからないからだ。でも職100%の人という意味ではなんとなく伝わる。その人全部が職なのだ。人間国宝みたいなもんだろう。ピュアだ。僕は職人を尊敬する。
「し」についてはもっと書きたい。。。
22:45:36 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!834.entry
コメントの投稿5月20日
さ
「さ」は散歩。五月のこの季節の散歩は格別である。
今日は近くのお寺の庭園に行ってきた。有料で入園料300円を払い、あまり期待もせずに入ってみたら驚いた。池とそれを取り囲む空間の演出。庭にはたくさんのツツジとシャガが咲き乱れていて、その奥のマツやヒノキ、タケの森につながっていた。足元には竹の子も突き出している。池にはどす黒くなるほどのおたまじゃくしと、錦鯉が元気よく泳いでいた。所々に東屋の休憩所があり、主婦たちや外国人たちが池の向こうに見える五重塔など、景色を楽しみながら休んでいた。なんとも癒される空間、日本庭園という小宇宙をしばらくのあいだ味わった。
美しいもの、快適さに対して、最近は惜しみなくお金を払える自分に気づく。お寺の人たちは、この庭園を維持するのは大変かもしれないが、そこに仏教の世界に通じる何か大切なものを感じているのであろう。
帰りに、お寺の本堂の床下の乾いた砂地に、アリジゴク(蟻地獄)の巣をみつけた。子供のころは
、オケラとアリジゴクには特別な興味をもっていて好きだった。しかし、お寺にジゴクとは。。。
19:09:08 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
固定リンクhttp://humanspider.spaces.live.com/blog/cns!2495866E171856AD!827.entry
コメントの投稿5月16日
by humanspider2006
| 2006-09-10 08:04
| MSNスペース時代のコラム書庫
|
Comments(0)