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カテゴリ:MSNスペース時代のコラム書庫

  • 国体
    [ 2007-09-19 09:38 ]
  • ま行(途中)
    [ 2006-09-10 08:09 ]
  • は行
    [ 2006-09-10 08:08 ]
  • た行
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    [ 2006-09-10 08:02 ]
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    [ 2006-09-10 08:01 ]
今朝のニュース。
「秋田県:天皇陛下見送り案内状でミス、訓告に」

県によると、職員は国体で今月来県される両陛下の帰京を見送る関係者181人への案内状をワープロで作成。うち秋田市議あての21通の文面で「悪天候などの理由」という表記を誤って「悪天皇」と記したまま、上司の決裁を受けず8月31日に発送した。9月1日、誤りを指摘する匿名の電話が県にあり、誤記が判明。同課はうち19通を回収し、2通は市議に破棄を依頼した。5日に事実経緯を宮内庁に報告したという。

毎日新聞 2007年9月19日 0時40分

県の職員(55)のタイプミスに誰も気づかなかった。若いやつなら、注意力が足りず見落とす可能性はあるにしても、55歳のベテランがこういうミスをするというのは、ちょっと考えると不自然だ。悪天候が悪天皇に間違われたのは、間違いではなく、意図的にすりかえられたのでは?という憶測も生まれる。天皇制に反対意見をもつ職員なのかもしれない。
私は秋田で国体、「若杉国体」があるのは、最近秋田へ何度か足を運んでいたので知っていた。しかし、国体ってそもそも必要なんだろうか?オリンピックや世界陸上は夜も寝ないで見たりする(大阪のはしょぼかったのでそんなに見なかっただろうけど)のに、国体は中継もなければ、その結果が注目されることってそんなにない。国民体育大会って、国民のための体育推進のために設けられたものだと思うが、戦前の匂いがぷんぷんする。ラジオ体操もだ。それを天皇に見ていただくという様式を考えると、それは今の時代に合っていない気がする。ついには、国体は天皇にささげる儀式だという見方さえ生まれてくる(それならそういう位置づけにしたらいい)。
とにかく悪天皇が意図的なものかそうでないかは別として、国体そのもののあり方は再検討したほうがいいと思う。地域の運動会程度でもいいんじゃないかなあ。運動会を天皇に見ていただくというのは、ちょっとほほえましい気もするし。
9月8日
おしらせ
お知らせ

最近このMSN Windows Live Spacesがバージョンアップしてから、どうも使い勝手が悪いのが気になりだした。
これまで2年以上ここにお世話になったが、世間にも「ブログ」は十分浸透して充実した。
ここらで、心機一転、引っ越そうと思っています。
最大の理由は、デザインが変更できなくなってしまったこと。
もうこんな重たいブログは、若くない自分には不要。
ただ引越しは大変です。
エクスポート機能はないし、どうもかなり特殊な形式で運営されているブログらしいので。
一個一個テキストで移動させるしかないかと思っています。
また経過を報告していきます。

筆者
11:48:32 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用
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ま(その2)
「ま」はまちがい.
今朝のニュースより.
人気の「酸素入り水」に効果なし? 国立健康・栄養研
僕はそれを,買ったことがある.水槽に少し入れたら魚にいいかと思って.
ガスが水に溶けるには,「溶解度」という約束事があって,水が冷たければ冷たいほど,またガスの圧力が高いほど,水にはたくさんのガスが溶け込む.
溶存酸素は,水生生物に重要であるが,人間にはえらがないため,この酸素はなにに効くのかなあと思いながら,コンビニの飲料ショーケースのドアを閉めた.
炭酸水は,僕はその効果を体感しているので認める.しかし,酸素水は???なにかまちがった認識でもあったのか?
メーカー側は,今朝のこのニュースにあわてていることだろう.商品開発のとき何を意図して売り出したのか.これからわかるだろう.ちゃんとした反論ができるかどうか?もしできなかったら,もう二度とそのメーカーの商品は買わなくなるだろう.説明責任がある.
こういう社会でのやりとりは,とても重要だ.作ったがいいが,ちゃんとケアできてるか.これからの社会はそれを見る.
いつも思うのだが,容器や包装は,ごみになる.ごみのことをケアした商品はほとんどない.作りっぱなしである.なんとも原始的な感じがする.PCや自動車メーカーはケアしようとしているが,世の中に大量に出回っている食品に関しては,ごみも売っていることになる.だから僕は飲み物を買ったコンビニにペットボトルを返している.
しかし言い方を変えると,炭酸飲料は温暖化ガスを売っている.酸素水は酸素なので少しましだ.炭酸水は世間から冷たく見られるようになるかもしれない.そういうアンチテーゼを,身をもって伝えようとしているのが酸素水のねらいなのか?!
11:43:11 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿9月7日

「ま」はマウンド.野球の話.最近,時々目にするのが,ジャイアンツ桑田選手の話.僕はジャイアンツが嫌いだが,強くなってしまった阪神ももうそれほど魅力を感じない一野球ファン.しかし,選手として,桑田選手はおそらく一番好きだ.発言や表情に,他の選手にはない知性を感じる.サッカーで言うと,頭角を現し始めたころの中田選手と似たものを感じる.いい選手はみな寡黙であるが,顔はものを言っている.心をぶつけながら投げている感じがものすごくする.野球の場合,9人いてもその試合の総運動量の90%以上はピッチャーなのだから,エースとしての彼の存在は,チームの顔であったはずだ.だが,年齢とともに衰えて,やがてはマウンドを降りるときがくる.そしてもう二度とそこには帰ってこない日が...メジャーリーグの野茂選手ももうじきそうなるのだろう.
マウンドという場所は,人生の縮図のようなところだと思う.選手の人生がそのまま象徴されていて,成功する日や失敗する日を繰り返しながら,最後にそこを去る.リタイヤである.だから,野球はお父さんたちに人気があるのだろう.サッカーにはそんな定位置がないので,思慮深いお父さんたちには人気がない.
桑田選手は,中田選手と同じく,大学へ進学して学問をする希望があるようだ.そんなところも彼の魅力である.読売の口車にのって,指導者の道には進まないで欲しい.新しい彼の人生にも注目したい.

「ま」はまじめ.まじめという言葉.僕が子供のころ,特に思春期のころ,ずいぶんと揶揄された言葉だった.僕はまじめだったので,まじめを馬鹿にする連中をいつも「あいつらは地蔵だ」と心の中で自分に言い聞かせていた.まじめを大切にする心は,今の子供たちにあるのだろうか?あれば幸いであるが,もしなかったら,この国の将来は厳しいものが待っているだろう.まじめの精神というのは,子供のころに培われると思う.あそびにまじめ,大いに結構.勉強に,友情に,恋愛にまじめ,結構結構.まじめとは,自分に躊躇しないということだと思う.ピュアな自分,雑味のない自分でい続けられることだと思う.いまの自分に響く言葉だ.オシム監督ならどういうかな?
8:40:16 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用
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コメントの投稿9月2日

「ほ」は本物.本物とは,にせものではない,ほんとうのもの.
ほんとうのものは,堂々としていて,他を寄せ付けない.
たとえば,大ヒットした本,映画,ファッション,電化製品,音楽.最初のヒットは本物といえる.しかし,それに便乗したものは残念ながら,僕はにせものと判断せざるをえない.勝手にまねをする行為は,必ずやしている本人に良心の呵責があると思う.だったらするな,とあえていいたい.
本物を生み出す努力は,尊敬に値する.また,本物を生み出すために人間は生きていかなくてはならないと思う.たとえば,本物の自分である.だれでもない自分を作ることが人生だと思う.Original Me.

「ほ」は掘る.なぜか人間は掘ることが好きだ.一番好きな人は,地球の一番深くまで掘りたいらしい.船からドリルを降ろして,海底を掘る.石油が出おるかもしれないというところはとっくに通り越してさらに深くを掘る.そうすると,地球の地殻とよばれる表層の岩盤を通り越し,マントルという緑色のと岩に到達する.そこまで掘りたいらしい.もっと深くまで掘ると,ダイヤモンドがザックザクの場所に到達するが,それはドロドロのマグマにぷかぷかと浮かんでいることだろう.
掘りたい感覚は,犬にも通じると思うが,子供は掘るのが好きだから犬といっしょだ.僕も子供のころ,基地を作ることに興じていたとき,地底基地を作りたくて庭を掘った.気持ちの上ではものすごく掘った.設計図を見ながら,思いのままに掘った.そこで壁にぶち当たった.隣の家の木の根っこにぶち当たったのだ.それであきらめた.地下には先客がいた.都会では地下鉄がそれか.掘る行為の深層心理にはなにがあるんだろう?
9:55:33 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用
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8月27日
へ(その2)
「へ」は兵器.子供のころ,男の子ならみな戦争ごっこをしたことがあるだろう.そしてその手には「へいき」なるものをもって遊んだことだろう.本物の兵器がどんなものか自衛隊にでも入らない限り持つことはないのだが,よく考えると少し恐ろしい遊びである.木の棒であったり,おもちゃの銃だったり,泥ダンゴの手榴弾だったりしたその「へいき」も,本物だと実に冷たく重く鈍い光を放つ代物だと思う.今書いたものは兵器の中でも武器に相当する個人ベースの器具だと思うが,これが大量殺戮が目的のものになると兵器になる.ミサイルがその頂点にたつものだと思う.
映画「2001年宇宙の旅」では長い長いイントロの中で,われわれの祖先の猿が,初めて道具を使うようになって,その道具がやがては武器に変わり,その武器が最後に宇宙ステーションに変わるという感動的なシーンがある.ミサイルだって最初に使われたのはフビライハーンの元寇で戦いだったかもしれないし,近代兵器の中ではナチスドイツのV2ロケットだったんだと思うが,いまではその技術は宇宙ロケットの技術として結晶している.
まったく同じ歴史を歩んでいるのが,核兵器である.エンリコ・フェルミが核分裂リアクターをシカゴ大学の敷地内で開発し,そのまま発電技術に生かされようとする手前で,マンハッタン計画の中で広島と長崎用の核爆弾の開発に用いられてしまった.そして今は世界中にある発電所で平和利用されている.
兵器と科学技術は表裏一体.だけど,科学技術は人を殺すためにあってはいけない.せっかくここまでがんばって蓄積した科学の知恵が,対立者を排除する武力として使われるというのは,なんとも幼稚な話である.科学に失礼だ.この飛躍に非常に絶望してしまう.きっと世の中には,本来の進化の方向へ発展していく知能の人と,きわめて稚拙な知能の人が共存しているのだろう.そして後者のヒトは1000年後ぐらいには別の生物として分類されるべきものになるだろう.
戦争ごっこを何も知らずにしていた自分を恥ずかしく思う,前者の自分である...

9:15:00 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿8月26日

「へ」はへりこぷたぁ.僕はこれまで数回へりこぷたぁに乗ったことがある.空を飛ぶ乗り物のなかで最も好きな乗り物である.行きたいところへすぐに行けて,しかもゆっくりと飛べる.実に快適である.ただしローターの音がうるさく,機内ではインカムがないと会話できない難点もあるが...
一度目はオーストラリアで乗った.テレビ局の機材を載せた特殊な仕様のへりであったが,いろんなところに行くことができた.空から見たカンガルーの群れは,まるで日向ぼっこをしているトカゲか恐竜に見えた.イーグルも追いかけた.イミュの群れも見た.どこまでも連なる黒い峰も見えた(かつて太古の昔,地下から湧いてきたマグマがパイプを流れるようにまっすぐ流れていき固まったそうだ.本当に美しい景色だった.2回目は活火山の上空を飛んだ.イオウくさかったけど実にいい体験だった.へりこぷたぁの空の旅は,高速で飛ぶジェット旅客機では決して味わえない優雅な景色の鑑賞のたのしみである.垂直離着陸というのも魅力的だ.しかし,都市の上を飛んだときに気づいたのだが,高層ビルの上に必ず見えるHの文字.いかにへりポートが多いことか.つまり,ヘリコプターではたいていのところは行けるのである.タクシーのように賃走へりこぷたぁサービスあってもいいな.
1:12:57 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿8月16日

「ふ」はふぁん。楽しみだったり、ファン心理だったり。
楽しいことは子供のころから大好き(誰でもそうか)だ。
子供のころは、何か楽しいことを思いつくと、それを開始使用とする前に必ずおしっこに行きたくなった。友達をさあ出かけよう!ってときに、半ズボンの股間を押さえながら、「うぅ~、ちょっ、ちょっとまってぇ~」って逆向きに走って行っておしっこしてから改めて出かけなおしていた。そういうわけでスタートがちょっと遅れる子だった。
なぜか理由がわからないが、今でもその傾向がある気がする。図書館の書庫に入ると、別の理由かもしれないがおしっこしたくなる。なぜだろうか?
中学生のときから、誰か特定の人を好きになることを覚えた。作家では北杜夫が好きになった。好きになったらその人の作品を徹底的に読む。この傾向は今でも同じ。食べ物でも好きになったらそればかり食べる傾向がある。音楽では坂本龍一が好きになった。前者の北さんはもう創作活動はしていないと思うが、後者の坂本さんはまだ現役でがんばっている。芸術家は死ぬまでそして死んでからも、創作したものが愛され続ける。愛し続けた彼らよ、いつまでも僕の心の中には刻まれていますから(といってもそんなファン心理は届くまい)。北さんは知人の新聞記者に頼んで、自宅での取材時にサインをもらったことがある。元気に余生をおくられていることを祈るばかりである。
楽しいことはいつも思い出になるものだ。夏の思い出は楽しい。僕は田舎育ちだから、自然の中で楽しみを見つけることで日々過ごしてきた。夏休みには兄に連れられて朝、ラジオ体操に出かけた。小学校の校庭に行くと、6時半からなのにたぶん5時ぐらいから、だれかしら子供が校庭に生えている大きなイチョウの木に登って遊んでいる。カブトムシやクワガタをとっているのだ。僕はあまり昆虫には興味がなかったし、木登りはあまり得意じゃなかったのでいつも下で冷ややかに見ていた。夏の朝の日差しはとても強くて、ラジオ体操の最中にも僕は倒れそうになりながらも第二までしっかり終えて、深呼吸。もうそのころにはせっかちな子はハンコを押してもらいに走り出していた。僕は朝の暑さにくらくらしながらいつも最後にハンコを押してもらった。ピラピラのラジオ体操のカードを毛糸の紐で首からぶら下げて、近所の友達と帰路についた。しばらく行くと、生垣にアシナガバチの巣を見つけ、友達といっしょにそのきれいな巣の形に見とれているうちに、うっかりハチを刺激してしまい、逃げ回ったがあっという間に大群が僕の右足を襲った。一度に合計6匹ぐらいに僕は刺されてしまった。朝の7時ごろに朝日の当たる細い路地で僕は大泣きした。とにかくショックと痛みで泣いた。そしたら、近所のおばさんが僕の様子をみて駆けつけてくれた。そのおばさんは応急処置の仕方を心得ていた。なんと僕の右足を見てそのおばさんは家からろうそくを持ってきたのだ。何をするのかという興味もあって、僕は泣き止んでいた。そのおばさんはそのろうそくに火をつけて、溶けたろうを僕の右足の刺された箇所に垂らした。「熱いっ!」と思ったが、ろうが固まるやいなや、おばさんはそのろうをゆっくりとはがした。そして僕に何をしたかを説明してくれた。ろうが固まることで、足に刺さったハチのとげを固定し、そのまま剥ぎ取ることでハチのとげごと取り去ったのであった。今ではその技術は毛穴パックに使われているが、とにかくとっさにそんな高等なテクニックを披露された僕は感動してしまった。一本だけまだ残っているようで、おばさんは自宅に僕を招きいれて、老眼鏡をかけなおして、裁縫箱から針を取り出して、丁寧に取り出してくれた。その後、刺された箇所にアンモニアを塗ってくれて、僕は無事に家に帰った。そのとき以来、僕はそのおばさんが好きになって、その夏はおばさんに会うのがうれしいのもあって、その家にいた僕より4つぐらい上のお兄さんと遊ぶようになった。かわいい子猫もいて、古い漫画本(そこで初めて少年ジャンプを読んだ。はだしのゲンが連載されていた。)をたくさんもっていて、その家で過ごした夏は僕にとって思い出に残る夏になった。
5:42:35 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿8月7日

ひはヒト。地球上に住む生物の頂点に一応立っている二足歩行型霊長類。
しかし、地球上に住む生命のうち、宇宙人から見た地球の代表選手を選ぶとするとそれはヒトではなく、間違いなくクジラだろう。
さて、ヒトの起源や歴史については人類学という非常に面白い学問分野があり、私も少々興味をもって見守っている学問の一つであるが、ヒトの進化というものはおそらく、顔の進化でもあると思う。これについてはかつて学習院大学の先生が顔学という分野を築いて非常に面白い展開をしたことがあった。昔の若者向けNHK番組、「YOU」にも出演していたのを覚えている。講義も実は受けたことがあって、顔とはいかに重要であるかを知ったわけである。顔の進化とヒトの進化についてまったく同じ考え方をしているのが、昔の日本の数学者、岡潔氏であった。
要するに、顔は心を表す。心は知性の象徴であるということである。
知性があって初めてヒトらしい生き方をしているわけだから、顔は大事にしたいものである。
久々にキーをたたき、いささかためらいながらも再スタート。

8:44:40 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用
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7月24日

「は」は果て。昔の人は世界の果てはどうなっていると思っていたかという話を、大航海時代、スペインの帆船を率いてイタリア人のコロンブスが西インド諸島を発見する旅に出た歴史読本で読んだ記憶がある。海の水は滝のように落ちていき、船もそこに行くと落ちて二度と戻ってこれなくなると船員たちは考えていたと書いてあった。
僕は海のそばで育ったので、地球は丸いことを知らないうちから、そこに見える水平線が少し曲がって見える気がして、なんとなく地球が丸いことを体感していた。まっすぐの棒を水平線に当ててみると両端が少し隙間になるからだ。
結局、地球は球体なので、果てなどない周期的境界になっていたわけだが、この話を宇宙に向けると意味を持ってくる。私は宇宙論専門家ではないので、詳細は述べられないが、宇宙には果てがある。その果ての向こうには何があるのか?これにはずいぶんと想像をめぐらせた。お釈迦様の手のひらがあるのか?みたいな宗教的なことを想像したり...宇宙の果ての向こうは柔らかな光があって、まるで暗闇の映画館から出てきたような状態を想像したり...
正解はどうやら、この世の状態ではないものがそこにあるようである。この世がビッグバンのよって生まれたものであると考えると、果ての向こうにはビッグバン以前の世界があるわけで、それを考えることは、おそらく科学、哲学の最高難易度の問題であるから誰もわからないはずだ。
そう考えると、コロンブスの偉業は、スケールこそ小さいが、最新宇宙論に匹敵するぐらいの勇気ある行動だったといえる、と勝手に賞賛するのである。

11:45:31 コメントの投稿 コメントの表示 (2) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿7月19日

「と」は富み。富みは弥生時代から生まれた概念だと小学校の歴史で習ったような気がする。
物を集め、それをたくさん保持している状態が富みである。それが食料なら食うに困らないし、それが宝石などの貴重品ならば、物々交換でいつでも食料に変換できる。富があれば、それを守るために武力も必要である。そのシステムをとらえると、それは権力になる。こうして豪族が誕生したような説明を4時間目の社会の時間に、給食のメニューを思い浮かべながら聞いたのを思い出す。
このときに、はっと思ったのは、富の概念が誕生する以前の社会のことであった。縄文時代にはそういう概念のない社会だったので食料がなければそれでジエンドだけど、貧富の差のないすばらしい社会だったんだろうなあと空想しながら、唇についたあげパンの砂糖をなめた。
深夜に放映されていたスタートレックのワンシーンにもピカード艦長が「我々は富の概念を克服した」と言う台詞があった。未来の社会には縄文時代と同じ平等な社会があるなんて、これもおもしろいなあと、唇についたビールの泡をなめながら思った。
お金は富をダイレクトに評価できる要素である。お金をさらに金やダイヤに変換して不動の価値を維持しようとしている人もいる。物質的には確かに不動であり、永遠かもしれない。だけど、核攻撃によって人も町もなんにもなくなった焼け跡に残った金のインゴットと表面がうっすら炭化したダイヤモンドがそこにあっても、それらの価値はだれも測ることができないのだ。人がいて、そして生きていくに必要な食物があって物質があってこそ、富は価値がある。だから、お金という富は集めるだけのものであってはならない。また、画一的にお金こそが富と考えるのも問題がある。お金からはすぐには生み出せない富というか価値が世の中にはたくさんある。しかし、お金という富のための燃料があれば、時間が作れるので、その時間を有効利用すれば、新しいアイデアが生まれ、本当の富というか価値というか英知というか、そういう尊いものが生み出せる。これは何を言っているかというと、教育である。
東京大学に入学する子の家は、年々高額所得者である率が高くなっているという。教育にお金をかけられるから東京大学に入るだけに鍛え上げられたということだ。しかし、お金があるから勉強する時間が得られたから、というのとはちょっと違う。もしも、時間がお金があろうとなかろうと充分にあるなら、そいつがやる気をだせば東京大学には入れる。
そうではなく、本当の意味で、自由にものを考える時間=ゆとりがあれば、そこから富というか価値が新たに生まれると僕は思う。そして、その富というか価値はみんなで共有できるものであってほしい。未来縄文時代は果たして来るのかな。
2:05:47 コメントの投稿 コメントの表示 (3) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿6月13日

「て」は鉄棒.小学校のころ,冬はすることもなかったので鉄棒に興じた.それでいろいろ技を練習して遊んでいるうちに,器械体操部のような部に入れられて体操競技大会にまで出場させられたことがある.鉄棒は小柄な子供にはいいスポーツだ.体が軽いから思うように回るし,懸垂なんて何十回でもできた.技は大車輪手前までできるほどうまくなったが,そこで6年間の学校生活が終わった.毎日手は豆だらけで,鉄棒競技用の革のサポーターみたいなものを手のひらにつけて鉄棒した.
いま,鉄棒をつかんでぶら下がってみると絶望的な気分になる.なんでこんなに重いのか.逆上がりしただけで豆ができた.情けない.
子供のころよく遊んだのは,鉄棒にまたがって,真横にまるでプロペラのよう回る技.これは股間に相当負担があるように思えるが,下向きに回っている時間が長いと楽である.何回回れるか競争したりして,まったく小学生の子供って変なことを競い合うものだと思う.今の子供らはこんなことしないだろうな.
鉄棒は体をむちのようにしならせてスイングすることが多いので,背骨や背筋にはいいスポーツだと思う.腕以外に力も使わないのでとてもリラックスした体勢で運動できる.これに似た動きはバンジージャンプだと思う.あれも腰の悪い人にはいいかもしれない.

「て」は天使.子供のころは天使がいると思っていた.なぜなら,小学校のころに見た「恐怖の心霊写真集」みたいな本の外国のバージョンにはっきりと写っている羽が生えている真っ白な天使が載っていたからだ.五月の新緑の季節,かくれんぼの草むらの影に身をかがめると,緑色の天使がチラッと見えそうな気になった.緑の天使はあの「リボンの騎士」のチンクである.タラちゃんの声のチンクである.サファイアを助ける天使だ.憧れの絵の前で息絶えたネロ少年を天国に連れて行ったのも天使だった.子供には天使が見えるのかもしれない.この前,子供部屋を掃除していたら,紙で作ってある羽が生えた小さな女の子の人形が何個も箱にしまってあるのを発見した.

「て」は鉄.鉄の鉱山を見に行ったことがある.もう10年以上も前の話だが,NHKのスタッフとそこに行って撮影に付き合った.その鉄は何両もの長い列車に詰まれて港町に運ばれ日本に向けて輸出される.でっかい露天掘りの穴に入ると,そこはもう地図を読むためのコンパスが効かない.地球の中心は巨大な鉄の球だ.その一部分がこうして地上にあふれていると考えると地球全部を食い尽くしてはいないだろうかと不安になったりする.自分の体内にある血液から鉄を抽出するといったどれくらいの粒になるんだろうか?僕が死んで灰になったとき,鉄の粒を磁石で集めて,骨壷の隣に別の瓶としておいてほしいと思う今日この頃である.変かなぁ?
23:49:40 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿6月9日

「て」はテレビ.最近の僕はテレビをあまり見ない人である.しかし,いまやテレビはデジタル家電のひとつになってしまった.液晶やブラズマ,HDDビデオ,DVD,BDなどなど...デジ家電は華やかだ.しかし,最近ようやく巷にあふれてきたハイビジョン.ちょっとまえのデジカメ程度の画質で動画になるわけだから高精細(HD:ハイデフィニション)とはいえるが,それに耐えうる番組は提供できるのだろうか?そして,ハイビジョンという言葉の先行もとても気になる.high vision = 高い展望という意味に取れるのだから,それなりの高品質な放送を期待したい.あきらかに間違った用語が先行してしまって世界的にいうHDという用度からとりのこされてしまった感がありますが,NHKのみなさんいかがお過ごしでしょうか(きっこの日記風(笑))?
NHKが再編されると聞き,心配したのがBSチャンネルだったのだが,1チャンネル削減してなんとか存続するようだ.しかし,ラジオは第2放送とFMがなくなると聞いた.第2は残して欲しいと思うのだが.またFMも思い入れある番組がある(クロスオーバーイレブンなどなど).
進化したテレビだが,見たい番組はどんどん少なくなっていく.だから僕はデジタル化の恩恵にはあずかれない人だろう.
だが,この前は,久々にテレビに熱狂したのだ.それは先々週の夜BSで放映された,アニメ主題歌だけのコンサートの番組にである.出演者は昔のアニメ主題歌を歌ったけっこう年もいったおじさんおばさん歌手たちである.しかし,歌はパワフルだ.一番驚いたのは,昔のアニメ主題歌の女王,前川陽子さんだった.いまでこそ,全身から品のないオーラを出して歌う大阪の女性歌手によってキューティーハニーが脚光を浴びたが,その元歌は彼女.彼女も全身からかぐわしいオーラを発しながら,声量も昔のままで歌いきった.我が家は一瞬,紅白歌合戦に熱狂する30年前の昭和家族のようになった.ありがとう,NHK-BS!

18:10:16 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 ワタシノキロク ココロノキロク
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コメントの投稿6月5日

「つ」は釣り。私の数ある趣味で,これだけは特別な思いのある趣味である.私は子供のころ知り合った釣具屋経営の老夫婦に釣りを教わった。そのおじいさんやおばあさんがとてもやさしくて,大好きで毎日遊びに行っているうちに釣りに興味をもち、釣りをするようになった。実に小学校1年生の頃のことである。
そんな僕は,一人で川や池に行って釣りをする孤独を愛する子供だったのかもしれない.とはいっても,いつの間にか他の子供たちも,僕が釣りをするのを見て真似していっしょに釣りに行ったりしていたので,一人ぼっちということではなかった.だが,じっと浮きを見てぼぅーっと川面を眺めていると,その日にあったこととか,友達が言ったこととか,兄に聴かせてもらった音楽(なぜかいつもクィーンとウィングスのメロディーが頭の中を流れていた)が思い出されて,なんともいえないいい気持ちだったのだ.魚が釣れても釣れなくてもどうでもよかった.いつも川によしよしされながら,僕の小学校低学年時代は過ぎていったような気がする.小学校高学年ともなると,もう釣具屋のおじいさんおばあさんは,いつの日か僕の家族の一員になっていたような気がする.お正月にはお年玉までもらっていた.そのお年玉で釣竿を買わせてもらっていた.僕の父も母もその釣具屋さんとは深く付き合って,母にいたっては,おばあさんが生花の先生であったことから,生花を習いに行くようにまでなった.子供は釣りを習い,母は生花を習う.妙な関わり方であったが,とても楽しい時期だった.
中学に上がっても,僕は釣りをしていた.もうおじいさんおばあさんとはいっしょに肩を並べて釣りにいくほどの腕前になっていた.学校帰りの夕方に,おじいさんの運転する車に乗って,近くの川まで,おばあさんと愛犬と僕を乗せて,アマゴを釣りに行ったりした.そんな牧歌的な少年時代を送った.
時が過ぎて,おじいさんが病気で亡くなった.一人ぼっちのおばあさんも後を追うように病気で亡くなった.今ではその釣具屋の建物は跡形もなくなくなってしまった.だけど,僕に釣りを教えてくれたこと,少年時代の長きにわたって,釣りという形で僕をはぐくんでくれた老夫婦の愛は一生忘れることはできない.だから,僕は今でも釣りをする.絶対にやめない.
17:46:08 コメントの投稿 コメントの表示 (3) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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5月31日

「ち」と書いて,はて.大木こだまひびきの曲か,チサンマンションの看板か,うーん,浮かばない.
そうだ,「ち」は賃貸住宅.姉歯建築偽装事件で分譲マンションを買い控える人が増えているらしい.そこで,最注目を集めているのが賃貸マンション.実は私も賃貸マンション住民なのだが,居を構える勇気が無いというか必要性がないため,ずーっと賃貸のままである.しかし私の賃貸マンションは入居率が50%程度しかない,半分ゴーストタウン化したマンションであり,夏はとなりの空室が熱を溜め込み,接している壁が「ぬるい」し,冬は「つめたい」ために,熱効率が悪すぎである.しかし,これは外気にさらされている一戸建てだともっとひどいのだろう.したがって,しっかり入居されているマンションは熱効率がよく,冷暖房費も一戸建てよりかからないかもしれない.セキュリティー面も一戸建てよりはいいかもしれないし.しかし,この部屋を買うとなると話は別である.マンションをある値段で買うとき,その値段,つまり価値は,となりのいる,いないで熱効率が相当かわるわけだから,たえず変化していくはずである.人気のあるマンションならば,空室もなくみんなびっしり生活し続けていけるが,そうでないなら,実は不便である.周囲からの影響を「マトリックス効果」というが,その効果を考慮したマンション選びが必要だ.
....ま,うかばないネタを無理に膨らませるとこんな結果になる......

気を取り直して,「ち」は地底.先日Gyao(USENが提供しているインターネットテレビ)で「海底少年マリン」という子供の頃見て好きだったアニメを見た.海底は海の底ということでわかるが,地底って???地の底はなにを想定しているんだろうか?地球のコアが地底に相当することになるが,そんな超高圧,高温!地底人ってそんな極限環境の生命体なのか,とふと思った.いちゃもんはそれくらいにして,我々は宇宙や海底でなにが起きているか,だいたいわかるようになった.しかし,地底じゃなく地中でなにが起きているかは,まだよくわかっていないままである.
火山が噴火する際にマグマという高温のどろどろの液体が昇ってくるが,それがどうやってくるのかは地中の岩石が妨げになってみることができない.また地震を引き起こす断層も地中にあるものは地上にある断層からの推定である.地下にどんなバクテリアが生息していて,地下にどんな資源が眠っていて,地下にどんな埋蔵金があるか,などなど,わからないことだらけである.
だから,次なる目標として,地下を理解するという方針を打ち出して欲しいものだ.ニュートリノで地下を見るなんていいかもしれない(実はもうすでに始まっているようである).

「地中それは最後のフロンティア」...スタートレックより(笑)
9:40:55 コメントの投稿 コメントの表示 (2) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿5月30日

「た」は食べる。私は食べ物では寿司が好きだが、今朝のasahi.comのニュースより。
「遠洋マグロ漁 存亡の危機」(http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000000605290005)の記事。
僕は言いたい.遠洋漁業が衰退するのは地球温暖化など自然環境の変化に伴って当然だし,それを嘆いてどうするのだと...つまり,言い方は悪いが,彼らは所詮ハンターである.獲物を求めて世界の海を走りまくっているだけなのだ.洋上にSO2ガスに富む排気ガスを撒き散らしながら.でも言いたいのはこれではない.自然に生息するマグロを採るだけとっておいて,彼らは海に何か恩返しをしたのか?「がはははぁ~大漁じゃぁ~」って旗をたなびかせて喜んでいただけなのではないのか(安物焼酎のCMみたいに)?
温暖化に伴う地球の海洋環境の変化はどうやら思ったより早いらしいが,昔のようにマグロとり放題,クジラとり放題という野蛮な時代ではもうないのだ.農業を見習って欲しい.どこの農家に,野生の作物を求めてさ迷い歩いている人がいるのか?みんなちゃんと種をまき,苗を植え,水をやり,肥やしを与えて育てているのだ.
なんにもしないで,行ってとるだけのハンティング遠洋漁業は見直したほうがいいと思う今日この頃である.

「た」は田んぼ.農業の話がでたので,ついでに.
稲作は間違いなく日本の農業の代表選手である.水田のある風景は日本の情緒を醸し出してくれる.
先日の連休に田舎の実家を訪れたとき,連休には珍しく雨天続きだった.ある日,結構な雨量があったので,窓の外を見たら,家のとなりにある田んぼにむかって,川の水が増水したためか,下流側の用水路から水が逆流してきた.その水路は排水用で,近くを流れる小川に繋がっているのだが,その小川に生息している,体長40cmもあろうかというなまずが何十匹も逆流とともに田んぼに昇ってきたのだ.まだ稲を植えていない浅い田んぼを,お調子者のなまずたちがくねくねと泳ぎまくって,みるみるうちに,なまず天国,なまずプールになってしまった.しかし,よく見ると,ただ泳いでいるだけではなかった.よく見るとその泳ぎは,求愛の泳ぎだった.「産卵が始まる!」と思った瞬間,僕は見た,なまずが産卵するところを.
まずメスのなまずに何匹ものオスがが寄り添うように並走し,ある瞬間にオスだかメスだかわからないが,どっちかがどっちかに体を蛇のように絡み付いて,まるでぬれ雑巾を絞るようにして体を激しく痙攣させている.オスメスお互いの出すべきものを,あの強靭な(なまずを釣ったことある人ならわかるがなまずは引きが強い)なまずの筋肉によって絞り上げているのだ.なんと効率のよい交尾だろうか.春の田んぼはなまずたちの産卵によって,愛の田んぼに変わった.気のせいかなんととなく田んぼの泥水がうっすら白くなっているように見える.
そしてしばらくして,雨が上がり,増水による逆流が収まり,どんどん入ってきた水が今度は排水されるようになってきたからさあ大変.
しかし,なまずは賢い魚だ.何匹かのなまずはこの状況を察知し,用を済ませたものは脱出を始めた.これはただ細い排水路から,一匹,また一匹とするりと流れにのって出て行くだけなのだが,細く浅い水路を抜け出るにはそれなりの危険が伴う.近くの電柱には,この騒ぎを察知したとんびがよだれをたらして眺めている.そして,人間たちも気づき始めた.
その人間である僕の好奇心も抑えきれなくなってしまった.納屋から父の釣具のある場所においてあった磯釣り用の網をもってきて,田んぼに出た.別にハンティングしようと思ったわけではないが,なんか捕まえたくなるのが男としての人情だ.
田んぼの細い排水用の水路に網を構えると,賢いなまずたちはすぐにそこからいなくなった.そりゃそうか,と思いながら,今度は気づかれないように姿勢を低くして水路のそばにかがみ,網は水路の流れにのってなまずがやってきた瞬間にだけ出すように作戦を変えた.すぐにつるりとでっかいなまずが流れてきた.さっと網を差し出すと,見事にキャッチできた.しかし,網からはみ出さんばかりの大きさだったし,ばしゃばしゃ暴れてすぐに逃げられた.それもそのはずである.網が破けた.破けた網をその場で部分的に縛って修繕し,再度トライ.すぐにまた捕まえられた.向こうのほうで,このなまず騒ぎを知った子供が田んぼのあぜ道から網を上からかぶせるようにしてなまずキャッチを試みていたが,それでは捕まえられまい...
捕らえたなまずはとてもきれいなうす緑色をしていた.春のこういう雨のときに産卵をするんだということをそのとき知り,僕はちょっとうれしくなった.網の中のなまずを子供たちに見せてあげてから,そっと返してあげた.この田んぼで生まれる子孫を残し,彼はまた水の中に消えていった...
11:41:11 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿5月29日

へんな時間に起きてしまった。それもこれも昨夜のBS2放送のアニメ主題歌コンサートで2時間盛り上がり続け、飲めないワインを飲んでしまったからである。眠くなるまでここに書き込むことにします。
「そ」は総理大臣。小泉純一郎氏は初めて任命されたときから、もうすぐ退任する現在にかけて、ほぼ同じ程度の存在感でい続けた、戦後の日本では珍しいタイプの総理大臣だと思う。僕の子供のころから「ソーリダイジン」といえば、田中角栄であり、大平さんであり、三木さんであり、福田さん、中曽根さん・・・・その後は印象薄くて覚えてない、程度の記憶しか残っていない。戦後の輝かしい日本経済の発展の歴史からすると、どん底に低迷していた時期の総理大臣を小泉氏はしたわけで、大変なことだとは思う。しかし、任期と人気が長く続いたということで、良くも悪くも国民の意識の中には定着できた。ただ、日本の慣習を急に変えすぎた嫌いがある。この数年で日本は急にアメリカ社会のようになってしまった。こうなる必要はなかったはず。社会に日本らしさがなくなってきている。あるいは、ようやくアメリカによる日本の戦後支配が明確に開始してきたということなのかもしれない。アメリカ製憲法をずっと使い続けた効果が現れてきたのか。
小泉流のズバっと潔い改革は、アメリカ的視点からすると、とてもいいことだと思うが、われわれには日本人の血が流れているのだ。かつて、アメリカの自動車メーカー、GMやフォードが、トヨタの経営体制や工場システムをお手本にした時期があった。そこにはアメリカ流にはないジャパン流の学ぶべきいいやり方があったからだ。コイズミ流構造改革はジャパン流だったのか?外国が学ぶべき要素はそこにはあったのか?そこを問いたい。どこかがやったことをお手本にして、実行してきたことなら、おそらく今後なんらかの障害が生じることになるだろう。

「そ」はそば。アレルギー反応の強い食べ物である。うちの娘はたった1本食べるだけで顔がお岩さんのようにまぶたが腫れあがってしまう。このようなアレルギーは、昔の日本にもあったはずで、例えば江戸時代にもそばアレルギーで困った人とか死んじゃった人もいるはずだ。木賃宿にとまったら夜中に突然死んでしまって、調べるとまくらがそば殻だったとか、そんな原因不明の死がたくさんあったと思う。そんな危険な食べ物だが、食べられる人にとってはなんとも魅力的なうまいヌードルである。
しかし、そんなそばだが、いま思い返すとすごい冒険だなと思ったのは、国際線の機内食で出たことだ。もう10年も前に、シアトル国際空港からノースウェスト、成田経由、香港行きの便に乗って、僕は1年ぶりに帰国した。その便での機内食が、そばかうどんがメニューにあった。しかし乗っている人は日本人だけではなく、中国人も多かった。もしも自分がそばアレルギー持ちだとは知らずに食べてしまい、太平洋上高度1万メートルの上空で発作でも起きてしまったなら、これは映画エアポート'75並みのパニックに陥るだろう。
しかし、例えば東京でお昼時に食堂を探すとき、そば屋の存在は大きい。つい入ってしまう。なぜなら、そばは早いし、しかもお店が清潔だからだ。メニューもごちゃごちゃしてなくて、店すべてが潔い。僕はそばが食べられてよかったと思う今日この頃である。
だんだん眠くなってきたのでこの辺で。最後にオリエンタルラジオのネタで閉めたい。「麦茶を飲んだらめんつゆだ。飲まずに急いでそば茹でる。武勇伝武勇伝武勇でんでんででんでん!レッツゴー!!」
3:42:27 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿5月28日

「せ」は世界。子供のころ、世界は広かった。別に地球は縮んでいるというわけではない。
子供のころの世界は、テレビ番組の「兼高かおる世界の旅」の世界であり、「すばらしい世界旅行」の世界であり、「世界の結婚式」の世界でしかなかった。それが大人になった今、仕事であちこち行くようになり、留学も経験して、世界は活動範囲になってしまった。もちろん、アマゾンの奥地や、南極大陸や、ヒマラヤ山脈や、シベリアの森林などの秘境は、今でも子供のころの、届きそうもない世界のままであるが・・・。
飛行機による輸送網の発達と、インターネットや衛星放送による情報網の発達によって、世界はだれでも手の届く活動範囲になってしまった。地球が有限の空間であるという認識が定着し、人によっては狭く感じるようになったかもしれない。
地理的には有限なるものとして世界=地球が人々の意識に広まっている今、環境問題や、エネルギー問題などの問題意識を共有しやすくなったともいえる。これは地球という自然は勝手に維持されるんだという幻想から、壊さないようにしようという保護の意識を経て、治していこうという環境の形成(これもterra-formingといえよう)への発展に向かう過程にあるのだろう。熱帯魚の水槽を維持していくような感覚に近いものがあると思う。
僕がよく聞くネットラジオのradio sakamotoで、青森県六ヶ所村の核燃料再処理施設の話をしていた(いまオンエアしているので興味がある人はJ-waveサイトにあるRSSをiTunesへ)。地球には幾多の超新星爆発によって生まれた重元素のウランがある。その放射性同位体である235Uは核燃料として238Uとそこから核反応過程を経てプルトニウム239Puの燃えカスを生み出す。その核燃料廃棄物から239Puが取り出せるわけだが、これは地上で初めて長崎に投下された原子爆弾の材料である。そして、現在地上に配備されている核ミサイルの核弾頭である。六ヶ所村は核爆弾製造工場でもあるわけだ。なぜ日本はPu精製に勢力的かというと、プルサーマル(=プルトニウムサーマルリアクター)計画を推進しているからである。これは簡単に言うとウラン燃料にプルトニウムを混ぜて、高温で核反応させることで、長時間使える燃料として原子炉の効率を高めて、原子力発電を将来も安定に運営できる新手法である。だが、番組ではこのプルサーマルに疑問を投げかけている。採掘可能なウラン燃料が自然界にはまだたっぷりあるため、実は経済性もあまりないことを指摘している。そして、もっとも危険なのは、再処理過程で出る放射線量が桁違いに大きいことである。一年間に日本の原子力発電所が漏らす放射線の総量に匹敵する放射線を六ヶ所村施設では1日で大気と海水中に放出するらしい。
・・・・こういうことをどこかで行っているのが、今の地球であり世界であり、昔僕らが思い描きあこがれた世界、地球とは異なった方向に向かいつつあるのが本当の姿である。電気の供給を増やすために国はいっしょうけんめいなのだが、これはCO2排出量削減には寄与するかもしれない。しかし、結局、電気の消費量を増やし、物すべてを消費する生活を加速させるため、逆にCO2排出は増えるかもしれない。僕は100円ショップはCO2排出を促進している事業だと思っている。なぜなら、あそこに売っているものは、いいかたが悪いかもしれないけど、はっきり言って「ごみ寸前」であるからである。それと同じことが、原発の増強によって起こると思っている。
だれか、消費しないことがカッコいい、といったブームというかスタイルをはやらせてくれないかなあ~。そう願う今日この頃である。
12:26:46 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿す
「す」は素。ありのまま。極限状態になると、人はありのままの素の自分が出るものだ。
人前で話すことが多いゆえ、前もってパワーポイントなどでプレゼン資料を用意したりするが、それを練習して臨むなんてことは、学生時代以降はもうほとんどない。アドリブあるのみだ。これがお笑い芸人だったりすると、そんだけ準備なしで舞台に上がると、「神降臨」を期待するだけになってしまうだろうなと、いつも発表前に会場前列で思ってしまう。だが、いざしゃべり始めると、そこは慣れたもので、そつなく話せてしまうが、たまに、素の自分がはっきり出てしまい、思わぬ脱線というか、予期せぬ展開というか、ジャズのソロ的な気持ちのいい誤算があったりする。
そう考えると、人はいかに殻を脱ぎ去り、素を出せているかで勝負が決まるんだろうな、という解釈にたどり着く。しかし、これが簡単なようでなかなか難しい。素がだせるようになるために、どれだけ素とはかけ離れた理論武装を殻としてまとわなくてはならないか。いざという舞台で潔く脱ぎ捨てるためだけの武装を。。。大学行って、大学院行ってという長い過程も、脱ぎ捨てるためだけのものだったということにもうすうす気がついてきている今日この頃だ。

もひとつ「す」はスーパーマン。中学の頃見た映画、「スーパーマン」は本当に印象的な映画だった。アニメではNHKなどですでに見ていて知っていたし、それがアメコミから来ていることも知っていたが、実写化されたSF映画としてのスーパーマンは、当時の特殊撮影技術からしても、かなりスーパーなできばえだったと思う。ボストンポップスが演奏したと思うが、主題曲もとてもよく、特に間奏部分のメロディアスな部分は傑作に値するメロディーだと思う。その映画がリメイクされる。前作の主演、クリストファー・リーブは落馬で頚骨骨折で全身不随状態に陥り、その後も治療に努めたが、亡くなったことは記憶に新しい。
そのスーパーマンが、「スーパーマンリターンズ」として帰ってくる。近頃ヒーローが次々とリターンズしている(笑)が、子供のころ見た映画として記憶に残っているこのスーパーマンについては、ぜひとも見たいと思っている。音楽ももし同じだったら、ちょっと泣いてしまうかも知れない。。。

スーパーついでに、「す」はスーパーノヴァ、超新星爆発。重たい元素が生み出されるためには数々の超新星爆発が繰り返されてきた。そして、今の地球の物質ができあがっている。僕たちは星のかけらなのだ。金以上の重たい元素ができるには最近のスーパーコンピュータでの計算では2つの超新星が衝突しなくてはならないそうだ。話はそれるが、スーパーコンピュータっていつまでスーパーなんだろうか?

最後に「す」は好き。初めて好きになった人のことは誰しも決して忘れない大切な思い出だ。最近週刊アスキーを買ったら、表紙を飾る女性の写真にちょっと釘付けになった。劇団四季かどこかの女優さんらしいが、あまりテレビには出ていない彼女の姿に僕は懐かしいものを感じた。初めて好きになった人、正確に言うと、初めてラブレターを書いて、ものの見事に振られた女性が大きくなった姿にそっくりだったからだ。といっても、最近になってその女性にあったわけでもなく、きっと今こういう顔立ちになっているんだろうなという想像した今の顔に対して思っているだけだ。昔どんな顔だったかもおぼろげない。
だけど、時がたって、記憶も定かではないけども、きっと近い顔立ちをしていると思う。それだけ、好きだったという記憶は、脳の奥底に、タイムカプセルのように頑丈な容器で守られしまわれている。なんとも青臭い話だなあ。

このMSNスペースのデザインを変えてみました。緑色基調は変わらないけど、xbox360デザインなのが玉にキズ。このロゴをみると、ほかほかのジャガバターを思い出すのは僕だけ?
0:11:12 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿5月24日
し(その2)
「し」は死というのは避けられない課題.
生まれてこのかた死体を見たことない人は,さすがにこの年ほどになるといないと思う.
しかし,布をかぶせられ白装束で布団に横たわっていたり,棺の中に綺麗に死化粧して,菊の花を飾られて収められている死体と,野外で見る死体とではまったく別物である.
アメリカに住んでいたとき,いつものようにバスで大学に向かっていたら,もうすぐ授業が始まりそうなのに(始業は8時だった),一本しかないメインストリートは大渋滞.いらいらしながら座っていると,立って乗っている若い学生たちが騒ぎ始めた.ささやくような声で"Wow, he is dead!"というのが聞こえたので,僕もバスの窓から外を見たら,シェビーのピックアップトラックの屋根の上に,明らかに死後硬直したジーパンを履いた死体が,足を道路側に突き出した形で横たわっていた.びっくりした.そして次の瞬間,目を背けた.たぶんみんなそうだったかもしれない.日常に突然飛び込んできた死というものは,その非日常性への違和感というか,悲しさなき客観的死というか,ものすごい奇妙な感覚を僕に与えた.
映画「スタンドバイミー」はアメリカの少年たちが,死体を捜す競争に旅立つ話だが,ついにその死体を見たときに興味本位に浮き足立った少年たちの態度はがらりと変わり,興奮は冷めてしまった.死の違和感は,僕たち生きている人間には,ある種のプログラムが起動するかのような特別な意識を働かせるのだろう.その先には,何か宗教的なものがありそうだが,そこにはまだ僕の未熟な心はたどり着いていない.

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コメントの投稿5月23日

「し」は新。新オバケのQ太郎、新巨人の星、新エースをねらえ、などアニメ番組タイトルに新をつけるのがはやった時期があったように思う。子供ながらかっこよかったと思った。しかし多くはリメイクすると後に文字が付くのが多いようだ。ドラゴンボールZしかり、おジャ魔女どれみどっかーん、キューティーハニーFしかり。でもやっぱり、新○○のほうがかっこいい。ふと思い出したが、関西では有名な新野新さんは元気だろうか?
新は新機種。とてもそそられる言葉である。最近では新機種という言葉が代名詞として使われるのはもっぱら携帯やパソコンであろう。特に使用頻度や所有者数を考えると携帯電話の新機種というのが一番に浮かぶ。新機種が出る数は各携帯会社に対してそれぞれ持ちまわりで決められているようだ。公には言われてないが、これは正しいと思う。今はdocomoが各会社内では最大数の新機種を出荷している順番である。そして、たくさん出せる順番が回ってくると、必ず新規契約者は増えるはずである。これは一種の八百長である。市場における競争原理を無視しており、公正取引法違反の疑いがあるかもしれない。僕の愛用するvodafoneは冬の季節。なーんにも魅力的機種がない。softbank交代前の焼け野原状態だ。。。
「し」は仕事。仕事に貴賎なし。いい仕事をしていられたら人は幸せだ。職人という言葉があるが、あれは適当な言葉ではないと思う。なんのこっちゃらわからないからだ。でも職100%の人という意味ではなんとなく伝わる。その人全部が職なのだ。人間国宝みたいなもんだろう。ピュアだ。僕は職人を尊敬する。
「し」についてはもっと書きたい。。。
22:45:36 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿5月20日

「さ」は散歩。五月のこの季節の散歩は格別である。
今日は近くのお寺の庭園に行ってきた。有料で入園料300円を払い、あまり期待もせずに入ってみたら驚いた。池とそれを取り囲む空間の演出。庭にはたくさんのツツジとシャガが咲き乱れていて、その奥のマツやヒノキ、タケの森につながっていた。足元には竹の子も突き出している。池にはどす黒くなるほどのおたまじゃくしと、錦鯉が元気よく泳いでいた。所々に東屋の休憩所があり、主婦たちや外国人たちが池の向こうに見える五重塔など、景色を楽しみながら休んでいた。なんとも癒される空間、日本庭園という小宇宙をしばらくのあいだ味わった。
美しいもの、快適さに対して、最近は惜しみなくお金を払える自分に気づく。お寺の人たちは、この庭園を維持するのは大変かもしれないが、そこに仏教の世界に通じる何か大切なものを感じているのであろう。
帰りに、お寺の本堂の床下の乾いた砂地に、アリジゴク(蟻地獄)の巣をみつけた。子供のころは
、オケラとアリジゴクには特別な興味をもっていて好きだった。しかし、お寺にジゴクとは。。。




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コメントの投稿5月16日

「こ」は香水.つけなくなって久しい.結婚後つけた覚えがない.そもそも香水とは誰か相手をひきつけるためにつける,発情した動物が発するフェロモンのようなものだという認識である.そういう意味では必要ないものである.しかし,最近になってちょっと懐かしいというか,使いたい気になることがある.相手をひきつけたいからではない.寝室の枕である.別名「カレー臭」というやつである.枕にそれをかき消す香水があればふりかけてみたいという気になる.それほど,情けない臭いである.インド料理が好きな人ならいいのだろうが,寝ながらカレーは食べたくない.僕は自分はそんなに臭くない男だと思っていたが,いつのまにやら,そんな臭いを発する「おっさん」になってしまった.思い起こせばその臭いは,父の布団に近づいたときに嗅いだことがある.僕はその父の年齢になってしまっていたのだ.
香水という考え方は,「臭いものに蓋」という考えとはちょっと違う.臭いものもあるが,それに打ち勝つくらい素敵な匂いを前面に押し出すことであえて臭さを感じないというやりかたである.それはよくよく考えてみると平和的なやり方のように思えてくる.その人には悪い面もあるのだが,いい面を前面に見て接していこうとする円満な人間関係の手法である.一方,最近は銀パウダーなどナノテクを採用したデオドラント製品は,悪を駆逐して善だけの社会にしようとする画一的社会を目指すものに見える.
そういう視点に立つと,香水はいいものかもしれない.しかし,ある人に言わせると,香水は化学物質のひとつであり,あれを嗅ぐと頭が痛くなるから体にはよくないものである,のだそうだ.シックハウスと似たものかもしれない.
スイッチオンで香り,オフで香りが消える香水があればいいのかもしれない.そしたらきっと売れると思うな.

11:13:44 コメントの投稿 コメントの表示 (2) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿5月15日

「け」は剣.刀である.
小学校の頃,故郷の地元で江戸時代の昔,名刀正宗の流れを継ぐ刀づくりが行われていたという歴史に触れ,調べてみたくなって友人といっしょに研究レポートを書いたことがある.そのときに生まれて初めて,鞘から抜き取った日本刀を間近に見た.すごい迫力だった.古ぼけた刀の鞘の中には,ぎらぎらとした光沢を江戸時代から持ち続ける剣が収められていたのだ.刀を抜くときに,「サーッ,シャキン」という音がした後も,ブーンブーンとまるでスターウォーズのライトサーベル(最近では英語風にライトセイバーというらしいが)のような音が頭の中でし続けていた.刀は,当時の金属学の最高技術をもって生産されていた,いわばハイテク製品だと思う.この刀のために,国が動き,変わり,発展していったといっても過言ではないだろう.そのぬらぬらとしたの鋭利な刃の波紋を一度見ると,これは単なる武器ではなく,芸術品の一つであることがよくわかる.
僕の目の前で抜かれた日本刀は,耳かきの頭のぼんぼりのようなもので,おじさんの手によって丁寧に表面をたたかれていった.あれがなんのためだったのか,今でも思い出せないが,表面に天花粉のようなものを塗布していたのだろう.その後,刀は鞘に収められた.そこで初めて手で持たせてもらった.
その刀によって人が切られて血に汚れたところは想像することすら恐ろしいが,そういう道具であったことは事実である.私が手にした刀も何人か人を切った履歴のあるものだったかもしれない(当時もそんなことを疑問に思ったが,さすがにそれは質問できなかった).
そういうわずかだが子供の頃に刀と触れた体験があった目で見ると,かつての剣豪,宮本武蔵が木刀を多用したことは理解できる気がする.きっと武蔵はあのようなハイテクの代物,工芸品は殺しにはふさわしくないという美学を持っていたのだと思う.
子供は棒をもちたがるものだ.刀のように見立てて遊んだりする.その子供じみた憧れはいまでも消えていないようだ.一度でいいから,刀を川底の砂鉄(実際は磁鉄鉱と呼ばれる花崗岩に含まれる鉱物だが)から精錬してみたい.でも銃刀法に触れるようなことだけはしませんので...
13:17:28 コメントの投稿 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿5月10日
く(その2)
くは「故郷(くに)」。ゴールデンウィークの後半、休暇をとって故郷に帰ってきた。
私は毎年この時期に、故郷に帰ることにしている。なぜなら、一年のうちでこの時期がもっとも気候もよく、晴天に恵まれる確率が高いからである。
ところが、今年は違った。ほとんど雨の日々であった。まるで梅雨である。考えてみると、気候も温暖化の影響なのか、まるで季節が約1-2ヶ月早く進行しているかのようである。
故郷はしばらく見ないうちに、必ずどこかが元の状態ではなくなっている。開発が進んだり、人が変わって町の姿が変化しているからである。だが、大自然だけは町の変化よりもはるかにゆっくりと変化している。今回は、実家の近くにそびえる小高い山に娘とお弁当を持ってハイキングに出かけた。目的は、山の頂付近に生える赤松に寄生する植物の採取である。その寄生植物は、かつて、ちばてつやの漫画でも見たことがあるのだが、「ガムの実」と呼ばれていて、小さな緑色の実の中身がロッテグリーンガムのように緑色した樹液で満たされているのである。それを何個も集めて口の中で噛み、松の風味を味わうという、まさに「ガムの実」。それを子供のころ、何度もそこで採って食べた記憶があって、それを娘に教えたかった。けれども、山頂に着くと、ほとんどの赤松は枯れてしまっていた。太平洋沿岸に多くみられる松枯れの原因は、マツクイムシの影響なのか、本当のところはよくわかっていないらしい。枯れた赤松だけでなくかろうじて生息しつづける赤松もあったが、そのような衰えた松にはもはや寄生することもないのだろう。
高速で変わり行く故郷の姿、そしてゆっくりと変わり行く自然。記憶というアーカイブだけが、最後に残された望郷の姿なのか。。。

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コメントの投稿5月1日

「く」はくに.
最近,日中関係,日韓関係が悪化している.
それを国内ではあまり大げさに取り扱わないようにするコントロールも働いているようで,我々の生活には無関係な対岸の騒ぎのように感じる.国の意見や主張を誇示するのは大事であるが,それをよしとしない相手国の感情を考慮した態度は時としてとても大事だ.中国も韓国もいまや日本に並ぶテクノロジー国家であり,大戦前からははるかに進歩したアジアの先進国である.そして唯一日本だけが,大戦時の敗戦国であり,そのペナルティーは非常に大きかったはずである.ひょっとしたら,敗戦後に日本国家は,日本民族は滅亡していたかもしれないのだ.なのに,大戦時の遺物である「靖国」にこうもこだわる必要があるのだろうか.そしてもっと言いたいのは,そこにしか日本人の魂はないのか?ということである.
もしも新しい日本の姿を築くなら,日本人の魂のふるさとを見直すことからしなくてはならないだろう.我々日本人は,これまでその国民いや民族の精神的な問題をあまり直視しないで,経済発展に従事してきた.しかし,これからは,もういちど「国」としてのあり方を含めて,我々日本人の存在理由を考えていくべきだと思う.外国から見てうらやましくなるようなすばらしい国を我々の手で作っていかないと,亡国への道を歩むことになる.そんな取り組みを始めれば,韓国や中国はなにも言わなくなるだろう.努力する国にならなくては世界は認めてくれない.
こういう議論を小生のようなうすっぺらい思想でするべきではないのだろうが,建国の議論をインテリや右翼だけの特権にしてはいけない.だれでもそんな思いをもっていることが,国の意識を芽生えさせるために大事だと思う.サッカーやオリンピックのときにだけの「国」ではいけない.
大戦前の,すぐれた教育制度の余韻の中ではぐくまれた経済成長も終焉を迎えようとしている.これからはレベル維持がやっとの状態に甘んじることになるだろう.大学教育の現場を見ても,学問のレベル低下は深刻であり(世界のレベルが急上昇したためもある),革新的な方針転換が,教育現場に必要であることは間違いない.
以上,独り言でした.今週からGW休みをとります.いのちの洗濯に...

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4月28日
島には見えない

新幹線にて読める小冊子に気になる記事 確かに列島を大陸側からみると日本は島には見えない この視点の転換は大事だ いろいろ考えるヒントがここにある



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コメントの投稿4月19日

「き」は気候.春である.すがすがしい季節.新緑に囲まれ深呼吸したいが,くしゃみが怖い.
気候変動も目に見えるようになってきて,今年は黄砂現象がひどい.地元の中国では大変なことになっていることだろう.中国内陸部で砂漠化が進行していることがうかがい知れる.
アマゾンも近い将来砂漠になるらしい.気候変動や温暖化の行き着く果てが,そう,砂漠である.火星然り,月然り.生き物がいない星は砂漠なのである.

「き」は機械.機械の体を手に入れるために旅立った少年と謎の美女の物語が「銀河鉄道999」というアニメだった.機械人間がはびこる未来の地球社会では,生身の人間を狩るレジャーが行われていた.少年哲郎の母はその餌食となり,剥製にされそうになるところへと乗り込み,機械人間を皆殺しにして,家も焼き払い,謎の美女メーテルと共に銀河鉄道に搭乗する,というのが第一話だった.最終回まで見てないが,映画の結末から推測すると,結局機械の体はあきらめて生身の人間のまま帰ってくるという話だと思われる.

しかし,生身の人間とて,柔らかいが体の部位ひとつひとつはまるで機械だ.金属の機械と有機物の機械という見方ができる.共にその機能からするに機械には違いがない.問題は心が通っているかということだと思う.義足の人間がいても,その硬い足には愛着もあるだろうし,その人間は五体満足な人間よりもより人間らしい人生を送っているかもしれない.ただ,この機械が壊れたら,新しい部品に取り替えればいいというバックアップの考え方が心の片隅にはあるかもしれない.そうなると,人間らしい慎重さなどが損なわれ,結局人間の心が衰えていくかもしれない.ES細胞を駆使して,柔らかい機械として人間の部品交換が現実になろうとしている.そういった世の中でも,人の心であり続けるためには,何らかの新しい概念というか思想が必要であろう.何度もここで言っているが,科学技術の進歩に比べて,哲学や思想の進歩は最近大きく鈍っていると思う.
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コメントの投稿4月17日
か(その2)
「か」はこの時期なんといっても花粉である.
花粉は我々にとって迷惑なものであるが,植物にとっては大切なものだ.勝手にくしゃみしている我々は我慢する以外どうすることもできない.ある考古学の先生に聞いたことがあるが,花粉はその時代の気候をモニターするのに使えるものらしい.寒い気候で咲く花々の花粉がその時代の地層に多ければ,それだけ当時は寒かったというふうに考えることができる.それはもう立派な化石である.花粉も化石になるんだと感心した.そしてその花粉の取り出し方もすごい.山から取ってきた土壌をフッ酸(HF)溶液で溶かして,溶け残った沈殿物から花粉を電子顕微鏡などで見つけ出すという手法である.なんと花粉はガラスをも溶かすフッ酸には溶けないのである.すごい!現代のこの時代に作られた地層もあるはずだが,そこには大量のスギ花粉が含まれていることだろう.未来人はそれをフッ酸で溶かし,スギ花粉を見つけ何を思うだろうか?
花粉で思ったのだが,桜もこの東北の地にほころびはじめた.しかし,桜の花は日本人なら当然美しいと受け止めると思うのだが,今朝自動車で桜並木を通りながら,ある再発見をした.咲く直前の桜の美しさを.桜のつぼみは茶色を帯びた色をしているが,その先端がほころんでわずかにピンクが見え隠れている様を遠くから眺めると,茶色と濃いピンクが混じって,梅干が枝にぶら下がっているような,なんとも言えない色になっている.しかも,この状態はそう長くは続かないだろう.これこそ美であると思った.明日にはもうこの状態はないはずだ.そう思うと,桜の花のはかなさ以上の一瞬の美を感じることができる.なんでもそうかもしれない.最も成熟するちょっと前の瞬間が,一番美しいのだと.

「か」は数.子供の頭の中で,数はどのように処理されているのか,僕はまったく誤解をしていた.
子供は数字を言葉では認識していない.ものとして数字を認識しているのだということを忘れていた.何度言っても5+5=10がわかってもらえない.僕は音声で足し算を押し付けていた.お風呂の中などで声を出して教えていた僕はまったく間違った教えかたをしていたわけである.
1円玉を5つと5つを並べて10円.これには子供は簡単に答えてくれた.この目で見える足し算の繰り返しこそが,複雑な演算の基礎になっているのだと知った.非常にちょっとしたことだが,我々大人の脳は,演算をひとくくりにして代数学的に処理している.その呪縛から,初めて数に触れる子供への計算術を間違った教え方で説明してしまいがちだ.分子は原子でできている.原子も素粒子でできている.この基本的な概念はどんな世界でも普遍であることを忘れないでいたい.

次は「き」.季節かな?気持ちかな?絆かな?

10:59:51 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用
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コメントの投稿4月13日

「か」はかば。動物園に行くとき、目的のひとつはこの動物になる。だれがなんと言おうと、みんながはしゃぎまくろうと、僕は冷静に「かば」を狙っている(ハンターのように、ではないが)。こんな生き物が地球上に住んでいること自体不思議でならない。その巨体、しかし優雅な振る舞いは、海の王者「クジラ」に匹敵する。と、思っていたら、最近の生物遺伝学では、カバはクジラから進化したものらしい。
テレビでたまに見る、カバの生息する東アフリカの泉では、透き通ったきれいな水には、カバの糞が産み落とされても、いっしょに住んでいる魚がきれいに掃除してくれ、見事な生態系が形成されているそうだ。
それに引き換え、日本の動物園のカバたちは、劣悪な環境に住まわされている。東京に出てきた貧乏大学生のようだ。きれいな泉を再現した動物園はないものか?日本の動物園のトップである上野動物園のカバ園は特にひどい。仙台市八木山動物園はカバの泉を再現しようとしているが、近年は水質のコントロールがうまく行っておらず、汚い水の中を泳ぐカバがガラス窓越しに見ることができる。

「か」は噛み付く。人に食って掛かる、ではなく、本当に噛み付く。がぶり、である。子供の頃、犬にかまれて病院に連れて行かれたことがある。飼い主のお母さんにである。犬から見るとあれくらいの子供はサイズ的に同レベル。噛み付いてやっつけることができると思ったかもしれない。友達の犬が、僕を追いかけてきたので、僕は最初面白半分に逃げていた。が、すぐに犬の殺気を感じて、僕は「アハアハ」と笑い逃げていたのが、「ひぃ~」の悲鳴に変わって行き、友達の自転車の周りをちびくろさんぼのトラのようにくるくる回って逃げた。そしてガブリ!右足には子犬の鋭い歯型が付き、そこから幾すじかの血が流れた。友達のお母さんがあわてて、僕を町の病院に連れて行ったその慌て様が、ますます僕の恐怖をかき立てた。
そのことがあって、数年間、僕は犬恐怖症になった。小学校からの下校の途中で、当時はまだ野犬が結構いたのだが、それを見ると、みんな僕を狙っているように見えて、怖くて怖くて一人では帰れなくなってしまった。でもある方法を思いついてから帰れるようになったのだ。それは、投石である。僕は密かに、石投げの名手になっていた。一生懸命に投球練習をして、コントロールを身に着けたのだ。海岸に行くと、遠くに漂着したガラス瓶を立てて、そこにめがけて投げて割る。おかげで草野球の際にはいつもピッチャーになった。最近はもう犬恐怖症なんてことは微塵もない。野犬を見ることもないし、子供にとって危険なものは誘拐くらいだ。でもそんな小さな僕ですら、当時、ある意味護身術を見につけようとしたんだなあと、感心する。小学校4年生の思い出でした。

8:18:17 コメントの投稿 コメントの表示 (2) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿4月10日
お(その4)
「お」はオーストラリア第二回目.
マーブルバーという田舎町は,西オーストラリア州で最も暑いところらしい.町の人に聴いたら,どうやらここの暑さは記録をもっていて,40日間40度以上の日照りが続いたという世界記録があるらしく,ギネスブックに登録されているとのことだった.興味があればgoogleで"marble bar "+"hottest"+"Guiness"で検索してみるといい.そこはかつての金鉱山の町で,まるで西部劇に出てくるようなさびれたほこりっぽい田舎町だった.町のバーには例のパタンパタンとばねで閉じる宙に浮いた扉があって,ぶっきらぼうなバーの亭主がいる.いまでも金は掘り続けられているそうだが(少なくとも当時は),半分は観光地になっているようだった.その金鉱山の社長に会ったところ,日本からはるばるということで,このスーベニアーショップのどれでもすきなものをあげますといわれ,恐縮してスプーンを2個もらった.
このマーブルバーという町の地名の由来は,マーブル=大理石ではないが,マーブルみたいに見える岩石が辺り一面にあるからだ.そこを取材班とGPSをもって目的へとトレッキングとなった.山肌はつるんとした縞々の岩石でできており,僕は景色がおもしろいので,写真を撮りながら後からついていった.とそのとき,がけの中腹に小さな洞窟みたいな窪んだところがあって,その日陰で涼んでいたら,その壁にあるものをはっきりと見た.それは,古代人が残した壁画だった.夢中でシャッターを切ったので,きっと僕の自宅の書斎のダンボールのどこかにその写真のポジフィルム(全部スライドフィルムで撮影した)が残っているはずだ.僕は,取材班が目的としている場所よりも,その僕だけが見た洞窟の壁画が今でも印象深く残っている.
結局その取材して作られた番組はなんと「エミー賞」をとった.後からお礼の電話が当時アメリカに住んでいた僕の自宅に真夜中にディレクターからかかってきて知った.

「お」はもうやめて次に行きます.
12:04:08 コメントの投稿 コメントの表示 (3) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿4月9日
お(その3)
「お」はオーストラリア。
僕にとって、オーストラリアは1度しか訪れたことのない土地であるが、とても印象深い国である。
夏がついに来なかった93年の夏、僕はオーストラリアを旅した。旅といっても某国営放送テレビ番組の取材撮影のサポート役という仕事の上での旅であった。真冬にあたる7月8月なのだが、最初の訪問地、西オーストラリア州パースは暖かく、同行していたオーストラリア在住の日本人のフリーのフォトグラファーといっしょに、Tシャツでダウンタウンを闊歩して、マフラーを巻いているパースっ子たちに変な目で見られたのを思い出す。それから何日間か、西オーストラリア北部の国立公園に移動するまでの間、われわれクルーはパースで旅の準備をして過ごした。朝食に出てくる、「ベジマイト」という、日本でいう納豆的な発酵食品にまず驚かされたが慣れたし、カチカチのトマトのステーキも好きになった。わりと文化的な生活を1週間ほど経験したが、それから先の過酷な旅はその時想像だにしなかった。
国立公園は北部の鉄鉱石を輸出する港町、ポートヘッドランドの空港から車で半日もかかる。しかも道は未舗装で、赤茶けた大地そのままの道である。途中、トラックにはねられて死んでいるカンガルーやなんと牛の死骸を何度も見ながら進んでいったが、対向車の跳ね飛ばした小石が窓ガラスに当たって、いきなりフロントガラスに、「ピシッ!」っとひびが入ってしまった。最初は緑もちらほら見えていたのに、だんだんと少なくなり、しまいには、「スピニフェックス」といわれるとげとげした草と茶色の土だけになってしまった。夜遅く目的地の小さな町、マーブルバーに着いたのだった。

つづく
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コメントの投稿4月3日
お(その2)
「お」はオス.生物にはオスとメスが同じ比率で存在している例は実は少ない.人間とて男女比率は同じではない.小学校のとき,理科で初めて解剖を習ったとき,とてもおもしろくて,片っ端からフナの解剖をしたことがある.そのために釣りが上手になったくらいだ.そのとき驚いたことは,池のフナはなんてメスが多いんだろうということだった.オスを解剖したくて何度も釣りに行ったが,ついにオスには遭遇しなかった.まるでくじ引きの感覚であったかもしれないと書くと,生命への冒涜と取られるかもしれないが,そこがご勘弁を.とにかくメスがあまりにも多いフナ社会.
しかし,私の職場でも,子供の女子率が高いのは気のせいか?薬品の影響かなと思っているが,定かではない.環境ホルモンによって男女率が人間も影響を受けて変わっているとしたら恐ろしいことだ.産業界における化学物質とのなんらかの因果関係があるとしても,なかなか公には公表されないだろう.

「お」は音.昨日図書館にて,図書館でしか借りられないCDを見つけて,やや興奮気味にそれを借りた.効果音のCDである.これはとてもおもしろい.借りたのは,風物,祭り,花火の音特集,渓流の音特集,名水の音特集,雷,雨の音特集である.これらを聴くと,体には日々の音がしみこんでいるんだなあということがよくわかる.もっともおもしろい音だったのは,泡の音.特に,沼のメタンガスの音は最高にいい音だった.シンセサイザーのような規則正しい音でなおかつ,その匂いとは裏腹にとても透き通った音であった.もっといろいろな音を借りて聴いてみたい.

まだまだ「お」は続く...
13:58:52 コメントの投稿 コメントの表示 (2) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用
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コメントの投稿4月1日

「お」はおみやげ。
どこかに旅行をしたとき、出張したとき、最近まで僕は手土産は買わなかった。なんとなくこの行為が日本人的に感じていやだったからである。
しかし、外国人たちが、日本に訪問するとき、必ずたくさんのお土産を持ってきてくれて、あの人たちのスーツケースにはいったいどれほどのお土産が収納されているんだろうと、不思議に思った。しかし、お土産をあげたいという気持ちは、どうも世界共通のものであるようだ。先日、アメリカに行ったとき、日本人の知人には、成田で買った最新の週刊誌、月刊誌など5千円分を買ってもっていたが、アメリカ人の知人へのお土産を、またいつものドイツ人の友人に聞いてみたら、即答で「漢字の書いてあるもの」という回答を得た。いろいろ聞いてると、すし屋の湯のみが憧れのおみやげらしい。魚の種類を漢字で書いてある例のあれである。すかさず購入して、さらにお菓子のお土産を考えた。かさばらないもので、コンパクトにスーツケースに入れていけるもの、日持ちするものを選んだ。「もなか」である。しかし、あんこが嫌いな人には注意が必要であるが、一応そのときは好評だったのでよかった。
おみやげをもっていったとき、いっしょに食べたいなあという気持ちで選ぶ。でも、時々あげたお土産は開封されず、いっしょに食することなく帰って来ざるをえない人がいる。それはそれでいいんだが、もらった人は、一緒に食べたいものを持ってきたんだね、って思ってほしかったのも事実である。

「お」はおもしろい。
面白いことは、簡単である。いままで感じたことのないセンスを体験したとき、人は面白いと感じる。いつでも新鮮な頭でいられるときに、面白いと感じ続けられる。でもおもしろい感覚は鮮度が命。ほうっておくとすぐに腐ってしまう。おもしろいを維持していくのは大変なことである。でも腐ったら、新しいおもしろい実をとってくればいい。自分で栽培してもいい。

「お」はおかず。
僕は旅館などであまりにもたくさんおかずが出たときは、間違いなく、一個一個のおかずを順番に平らげていくようにしている。そうしないと、味を個別に味わえないから。最後にご飯が残ってしまうことも多い。わずか一品のカレーライスも、カレーの部分を先に食べてしまって、ご飯を残すこともある。

「お」jは多いです!ここは「つづく。。。。」

ちなみに前回のコラムで書いた、肥後守ナイフ見つけて即買いました。職場の机の上において刃を出したりたたんだりして、ニヤニヤしています(あぶない人に見られそうだ)。

2:59:00 コメントの投稿 コメントの表示 (2) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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3月28日

今回は何も浮かばないので思い出話特集.

「え」は駅.
子供の頃,田舎に住んでいたので,鉄道が開通していなかった.列車に乗るには隣町の駅まで行かなくてはならなかった.でも小学校1年生のときにようやく鉄道が開通して,みんなで駅まで行き最初に来た列車に旗を振って開通のお祝いをしたのを覚えている.
駅は旅立ちの舞台になる.兄が進学して先に旅立ったときは僕や両親は駅で見送った.僕も大きくなって故郷の町を去っていったときも,駅からだった.
その頃,「幸福駅」の切符ブームもあった.その時代のムードもあったのか,やたらと駅からの旅立ちのシーンを映画やテレビドラマで見たような気がする.田舎の駅は都会の駅と違って単線だし,人も少なく寂しいので,列車がプラットホームを離れるときには感慨深いものがある.この春,何人もの若者が,故郷を離れて都会の大学に旅立っていくことだろう.ただ,時にはレールの上をしっかり走ることはいいことだが,レールのない空路も人生には必要だ.

「え」は映画.
映画はほとんどすべて人が楽しめる総合芸術である.ただ,作り手のことがわかってくると,見方も変わるというものだ.実際にアマチュアムービーでもいいから作ったことある人ならもっと違った感じ方ができる.高校の時,8ミリ映画を作ったことがある.今思うとずいぶんとつまらない映画を真剣に作ってたなあと思う.実家に帰ると自分の勉強机の引き出しに,編集で余ったくずのフィルムを栞にしていたのを先日見てふと懐かしくなった.映像の表現方法は無限であるが,そのときはただ,誰かの映画の真似をすることしか頭になかった.でも音楽や映像効果やシンセサイザーを使った効果音にはかなり工夫をしたのを覚えている.そういう思い出があって,先日シンセサイザー購入にいたったのかもしれない(とても楽しく遊んでいる).
ちなみに大好きな映画監督は,日本では小津,黒澤は当然.北野,最近では井筒映画も好きだ.海外では,ゴダール,キューブリック,イーストウッド.映画館は小さな名画劇場が好きだ.昔,東京高田馬場にある,じゅうたんの上で座椅子に座ってみることができる小さな映画館によく通った(「大東京ビンボー生活マニュアル」という古い漫画に取り上げられていたなあ).そこでよく寺山修司率いる「天井桟敷」の実験映画を見た記憶がある.小津映画も足しげく通って見た.劇場から帰るときに預けてあった靴を受け取るのだが,そのときにミルキーを一個くれたのを覚えている.

「え」はえんぴつ.
鉛筆を使うことが最近少なくなった人は多いと思う.鉛筆削りを使うこともとっくになくなってしまった.小学生の頃は,鉛筆削りは家が電気屋だったので最新の電動のを持っていたが,ナイフで削ることに憧れた.通称「肥後の守」といわれる,日本式ナイフで削るのが一番通だとされていた.最後の芯の仕上げにはナイフエッジを立てて,芯をそぐように整えるのである.そういうことをしながら鉛筆で勉強することで,ノートを書いたり,テストの答案に書いたりすることに,ある種の神聖さを感じていたかもしれない.そんな頭の僕が,学生のときアメリカに留学したとき,困難にぶつかった.論文の直し作業でどうしても鉛筆が必要になったのだ.でもアメリカで売っているシャープペンシルがあまりにもひどいので,ある日鉛筆を近所にあったWAL-MARTに買いに行った.そこにものすごく安いアメリカかどこかの鉛筆と,日本のトンボ鉛筆が置いてあった.しかし値段がぜんぜん違う.日本製はアメリカのそれの数倍はした.でも同じだろうと思ってアメリカのを購入した.ところが,書き味がまったく違う.芯には石でも混じってるんではと思うほど滑らかさがなく,紙がぼろぼろと書き筋に沿って穴が開いた.後で知り合いに聞くと,日本製の鉛筆は世界一の質だといわれているとのことだった.わが子にも鉛筆の削り方を伝授してあげたいと思う...
20:51:47 コメントの投稿 コメントの表示 (4) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿3月27日

「う」はうそ.うそをつくことは誰しもあることである.絶対にうそはいけない場所ですら,人はうそをつくことができる.国会の証人喚問や,高等裁判所においても可能である.
が,うそをついている本人の頭の中では,それはうそであることがわかっており,自分に対してはうそはつけない.自分はけっしてだませないものである.自分をひどくだまして生きている人は,きっと快適な生活ができていないだろう.逆に,自分に対してそれほどうそをつくことなく(これが正常な状態だと思う)生きている人は,快適な人生を送っていると思う.しかし,まったくうそもなく潔白に生きている人は,皮肉にもさらに快適な人生をとはいかないはずである.あまりにもその清らかな人の周りがうそに溢れていて,そのギャップに苦しんでしまっているはずだ.残念なことに,人の社会は,清らかな心の持ち主にとって最適な状態にないことが多いと思う.しかしこう考える,それは人の人生において「スパイス」のようなものだと.そう受け止めることができたとき,清らかな心はたくましい心に変わるだろう.

「う」はうるさい.昨日,大型家電量販店を散歩がてら訪ねてみた.最近の掃除機に興味があったからだ.うちの家族は体が弱い面々で,アレジーもちであるため,ふとんのダニにはうるさい.いつも天日で干してから上下とも布団用アタッチメントをつけて3分は掃除機で吸引する.このお話はその「うるさい」ではなく,掃除機の「うるさい」である.掃除機はなんであんなにうるさいのだろうか?量販店でも静かさを売り物にした新型掃除機のアピールしたテレビ広告を流していた.最近のはいろいろ工夫されているようである.しかしここで考えたい.あのうるささは,例えば工事現場のようなうるささとは本質が違うと思うのである.その証拠に,あの掃除機や,ヘアドライヤーなど空気が流れるときの音を聞くとき,特に人の音声だけが聞き取りにくくなる(そう思った人は多いはず).騒音の周波数が人間の声に近いとそうなるのか?あの騒音はハスキーボイスの人が大声で怒鳴っているのと同じようなものなのか?そのお店の広告ビデオには,本質はなんなのかをちゃんと説明してほしかった.そのうち出るだろうな,「ノイズキャンセリングバキュームクリーナー」なるものが...
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コメントの投稿3月25日

「い」は怒り。人間にとっての最大の怒りは、戦争や犯罪などの、理不尽な殺戮に対して向けられる。この前、ある人のブログを見ていたら、第二次大戦中の米軍による、広島原爆投下前と、直後の広島市爆心の航空写真をウェブサイトに載せていて、それが前後であまりにもハイコントラストに視覚的にわかるような工夫がされているのが非難の対象になっているのを見かけた。
昨年は広島に何度か訪問の機会があって、平和記念公園にも行った。原子爆弾の原理に科学的な興味があったのだが、その中で非常にショッキングだったのは、原爆の戦争使用を進言したある偉大な科学者の手紙が展示されていたことだった。当時プリンストン高等学術研究所所属のアインシュタインから大統領へのものだった。ドイツから迫害を受けていたユダヤ人にとって、これも怒りの表れなんだと思うが。。。この史上初の究極の新型爆弾の投下地点はベルリンではなく、ヒロシマだった。
最近見た映画、「宇宙戦争」はスピルバーグ監督の映画である。あの映画を見た人は、一瞬に人が粉になってしまうショッキングな殺戮シーンに驚いたと思う。あのシーンを何度も見せられた僕もだんだんと気分が悪くなってしまった。死刑を含め、殺人という行為は僕にとって憎まれるべきものの頂点にあるが、それがあまりにもあっさり、一瞬になされたときに感じる違和感と後で襲ってくる恐怖、怒りは何だろう。ちなみに、スピルバーグもユダヤ人。何か原爆の瞬間的殺戮と重なるものがある。

「い」は一瞬。先ほどを受けて。一瞬の世界とは普段意識することはないものである。ミリ秒ぐらいなら人間は感じているかもしれない。PCモニターの画面の走査周波数が60ヘルツ。このリフレッシュ速度をわずかに変えたときに目には違った感じで映るのでわかる。だが、マイクロ秒(1E-6 s)、ナノ秒(1E-9 s)、ピコ秒(1E-12 s)になると機械に頼らないとわからない世界だ。ましてやさらにフェムト秒(1E-15 s)となると、原子が動いている速度の世界。こういう極一瞬の世界というのは、人間の意識の世界とは別の世界であり、原子にとっては人間はおそろしくのろのろした、あるいは止まっているような物体に見えるだろう。光速度は毎秒30万キロ(3E+8 m)。フェムト秒後、光は1E-7 m移動している。0.1ミクロン、100 ナノメートルで光の波長のオーダーになる。意味もなくこんな計算をしてみたが、頭の中やコンピュータでは簡単に一瞬の世界の想像や計算ができる。一瞬の世界に思いをめぐらすと実時間ではなんと時間のたつのが速いことか。皮肉だ。

「い」はさらに受けて、意識。僕は完全な自論だが、人間の魂や意識のようなものが幽霊だと思う。死んでも意識はどこかに存在し続けている気がしている。意識は電磁波、つまり光みたいなものとして微弱ながら振動を残していると漠然と思っている。もしも、その微弱な光をとらえることが出来たなら、幽霊カメラとして使えるだろう。スーパーカミオカンデならひょっとして幽霊見えるかも。。。
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コメントの投稿3月24日

また,以前していたようにテーマ別コラムへ戻ることにする.
今回は復活第1回目.テーマ頭文字もアルファベットではなく,日本語で行くことにし,「あ」から始める.この頭文字テーマコラムの形式は,実は自分の脳内を活性化するのに役立っている.作文ドリル.だから,読まれることを前提には書かないつもりだ.僕本来のやりかたに戻ることにする.
どうか,勝手に傍観,傍読ご自由に.

「あ」は嵐.春の嵐はその後の穏やかな天気を期待させる,嬉しさを含んでいる.夏の嵐は台風である.最近の気象は「異常」という表現はもはや適切ではないくらい,激しく変化する.特に風を伴う嵐のパワーは増大する一方だ.風は気圧の勾配にしたがって流れるものである.例えば,昔給食の時間などで誰しもやったことあると思うが,牛乳瓶を口で吸うと,内部は減圧して真空とは行かないまでも負圧状態になる.唇が中に吸い込まれそうになる感覚を楽しんだかもしれない.その後,その唇をぱっと離したとき,ズッポン!という音がする.これは外の空気が一気に内部に流れ込んだときの音だ.しかし,その風速は台風の何十倍もの速さにもなっている.その風の威力を生み出す圧力は,地球表面が局所的に暖められて膨張した大気が,そうでない大気との間に生じたものである.温暖化が進む今日,風も強くなることは予想するに易い.風力発電をもっと推進すべきという声もある.つくば市は早稲田大学が開発した風力発電システムを購入し,エネルギー消費量の削減を進めようとしたが,大学側の設計に問題がありうまくいっていないらしいというニュースを聞いた.だが,そういう姿勢は報道によって全国に知らされた.嵐をエネルギーに.なんだか青春時代の若者のようなイメージを掻き立てるいい響きだ.
「あ」はあきらめ.あきらめることは悪いことではないと思う.あきらめることを何のためらいもなく実行することは良くないと思うが,いろいろ考慮したうえであきらめるというのは,すばらしいことだと思う.東京都は以前,お台場を都市博覧会会場に予定して,実行準備していたのを,当時の知事,青島さんがあきらめた.あれは結果的に良かった.お台場はゆっくりであるが,東京都の新スポットとして,あるいは産業の拠点として発展していっているからだ.あきらめを選択した意味は,あきらめたあとに得られたメリットによって証明される.その点,日本のエネルギー生産技術である,「プルサーマル」法による原子力発電システム(ウランの核分裂で生じたプルトニウムを再利用し,高温で核反応させ同時に核燃料も作り出しながら長時間エネルギーを生み出し続けられる画期的手法),これは一時世間の非難をあびて,あきらめかけていた.しかし,この手法,日本が考案したものだが,フランスやインドが続こうとしている.あきらめないで実現してほしい.人類の未来がかかっている.
「あ」は月並みだが,愛.愛とは愛すべきものへのいつくしみの心.愛す人は同時に愛されるべき人でもある.愛の形として,裸で愛し合う行為となる.しかしこれは,愛とは生身の素の自分をさらけ出しあうことで最もよく確認できるからだと思う.飾らない素の人間は愛される準備をしている人である.

長くなってしまった.これも頭の整理が最近できていない現れである.簡潔さ,明快さ,明確さを訓練していきたい.
12:45:19 コメントの投稿 コメントの表示 (1) 固定リンク トラックバック (0) この記事を引用 コラム
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コメントの投稿3月23日