2018年 08月 10日
許容するということ |
台風13号が過ぎ去り、今朝の窓の外では雲の間からすこしだけの青空がのぞいているのが見える。
ふとあることを考えていた。たわいもないこと。でも自分が馬鹿になったときのために書き記しておこう。
ネットで繰り広げられる誹謗と中傷。戦前戦後に栄え、いまや消えゆくメディアである新聞やテレビからサラリーマン記者がせっせと流す偏った流行らせようとする意図の見えるニュース。ジャーナリズムを気取ったこれらのニュースの真似事である新参ネットニュースの誤字脱字だらけで、稚拙文体のフェイクニュースなど、スマートフォンのパケット使用料を引き揚げさせる文字だらけのこういったニュースがどれだけ我々の日常生活を毒しているか。数日間山に引きこもってオフライン生活を強いられるとよくわかる。
情報は自分が健全に生きていけるための必要最小限のもので充分である。
ニュースは常に大衆の怒りを煽る。例えば大学の不正入試問題や、政府の私立学校への優遇措置、オウム処刑が最近の例。また同時にニュースは同情も煽る。東日本大震災以降、その傾向は強く、自然災害のたびに現地の惨状をいち早く伝えて世間にさらすことで世の中から絆という便利な言葉を吸い上げてはばらまく。
僕自身は、熟成した大人の社会人であるため、ある信念をもって生きているつもりだ。その中で大事にしていることに「許容すること、英語で言うとforgiveの意味が強い」がある。これは怒りとは対局する言葉である。いろんな窮屈なこと理不尽なことがたくさんある中で、なんとか自分のパーソナリティを維持するためには、そういう雑音に感知しないで受け流し、すべてとはいかないがある程度許容する必要がある。まともに関わっていたらつぶされてしまう。
正義感というのは濁流に対して真っ向から盾突くための、ただの意気込みに過ぎないと僕は思っている。正義と悪というステレオタイプの偏った価値観は信じないことにしている。
必要なことは自分という確たる意思を保ち、その場からいさぎよく立ち去れることだと思う。
そのためにも、全てを許すこころが、難しいが大事である。定年して年金で暮らすようになった高齢者でもそういう成熟した人間に備わっていてほしいこころの持ち主であることは最近では少ない。その原因のひとつはネットなどのメディアにあると僕は思っている。
こころの広い人。ぼんやりと見据える自分のあるべきすがたとして。
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by humanspider2006
| 2018-08-10 07:14
| くもおコラム
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